| 2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <23/24> |

■2025年12月22日23:42
10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(45)
妙宣寺=`大膳神社♀ヤは、歩いても行けそうでしたけど、一応、バスに乗って(^.-)☆
でも、スグに到着です。が、進入路は狭くバス通りで下車し徒歩で(^-^)
WEB上で検索しますと、大膳神社≠ノついてこんな記載が…
◆大膳神社(だいぜんじんじゃ)
--- https://www.visitsado.com/spot/detail0106/ ---
-- 品格漂う能舞台をもつ資朝卿ゆかりの社 --
大和飛鳥路に例えられた田園風景に大膳神社が鎮座。地頭・本間山城守によって日野資朝、大膳坊が合祀され、正殿には御食津大神を祀ります。資朝の子・阿新丸が佐渡に渡り、親の刑死の無念を晴らした際、逃亡を助けた大膳坊は処刑。御坊の怨霊を鎮めるために、勧進されたとされます。1846年に再建された茅葺き寄棟造りの能舞台(県の有形民俗文化財)は、定能が盛んであった「国仲四所の御能場」の1つ。佐渡に現存する最古の能舞台と伝わります。現在も4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言が上演されています。
◆新潟県指定 有形民俗文化財:佐渡大膳神社能舞台 1棟、附 旧鏡板1面
--- https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/5131.html ---
-- 新潟県指定 有形民俗文化財 --
佐渡大膳神社能舞台 附 旧鏡板1枚(さどだいぜんじんじゃのうぶたい つけたり きゅうかがみいたいちまい)
松と杉の木を背にした境内地に建つ能舞台で、社殿に向かって左側に、正面を社殿に向けて配置されている。
現在の建物は、旧鏡板の背面にある墨書から弘化3年(1846)の再建とわかり、本舞台は間口5.5メートル、奥行4.4メートル、寄棟造茅葺である。床板は本舞台、後座を縦と横に張り分けているが、本舞台奥行が後座まで食い込み、天井は裏楽屋まで一体に小屋組を見せているが、松と日輪の絵が描かれた鏡板で仕切られている。
橋掛りは複式形式で、両側に地覆付の勾欄が付けられ、正面は平桁、裏通路との仕切りには通し貫の形式が用いられ、柱を設けず、3間の軒桁で橋掛り前面を開放し、背面は板壁である。地謡座は、以前は組立式の仮設であったが、今は常設されて竹の勾欄があり、舞台正面寄りの半分が客人桟敷となる。鏡の間の機能を橋掛り上に設け、裏楽屋とつなぐ複式橋掛り形式の代表であり、茅葺屋根ともあいまって佐渡らしい風格をもった能舞台である。
過去の演能記録としては、文政6年(1823)の「大膳御神事御能番組留」までさかのぼることができ、現在も毎年4月18日の祭礼に定例能、6月には臨時の演能が行われており、当地に伝わる鷺流狂言(県指定文化財)も上演される。
…と、こんな大膳神社≠ナあります。
大膳神社≠ヨの進入路の入口には、こんな説明板が…
◆大膳神社
大膳神社は、御食津神を正殿に、日野資朝を左殿に、大膳坊を右殿に祀る。延喜式内社「御食神社」は、この社ではないかとする説もある。正中二年日野中納言資朝佐渡流罪、元徳二年、資朝の子阿新丸が渡島する。
地頭本間山城守は対面を許さず、資朝を処刑、阿新丸は山城守の太刀取り、本間三郎を討ち帰京する。
阿新丸の逃亡を助けた山伏大膳坊は処刑される。城主が大膳坊の怨霊を鎮めるために勧進した社と伝える。境内に能舞台を有する。
-- 佐渡市教育委員会 --
進入路の途中の傍らには、こんな案内板も…
◆県指定文化財(有形民俗文化財)
佐渡大膳神社能舞台(平成9年3月28日指定)
素朴で美しい佐渡能舞台の代表的な遺例で、弘化3年(1846)に再建されました。
舞台は寄棟造茅葺で、本舞台と後座からなり、鏡板には日輪と松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。常設の地謡座は近年の増築によるもので、鏡の間はないものの、複式の橋掛りに裏通路が附属し、舞台裏の楽屋へと通じています。
演能は現在も盛んで、4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言(県指定無形文化財)が薪能として上演されています。
-- 平成25年2月 佐渡市教育委員会 --
境内の一角には、こんな大膳神社♂暑Nが綴られました石碑も…
◆大膳神社縁起
左殿 日野資朝卿
正殿 御食津大神
右殿 大膳坊賢榮
正殿 御食津大神は農業食饌の祖神豊穣の守護神で古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている
その勧請創始については諸説があり一説には式内社当国九社の一つとも言われるがなお詳かではない
正中の変の折日野資朝卿当国に配流され一子阿新丸は父子対面を求めて遙々都から下向したにも拘らず遂に許されぬ儘父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入しその弟三郎を斬って本懐を果した
この間大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したがその孝心の已み難きに感動してこれを扶け更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し無事虎口を脱して帰京せしめた
山城守は激怒し大膳坊を処刑したがその後大いに悔い畏れて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている
-- 昭和31年4月 宮司 --
大膳神社の境内に隣接し、二つの題目碑を備えた山門が…
ここは、画像に納めるのみでしたけど、この山門は本光寺≠ナしたのですネ。山門傍らには、「日蓮聖人 赦免状拝読の地」の説明板がありましたのですけど、気付きませんで眼を通せませんでしたGONsanです(^-^;
◆本光寺(佐渡市宮川)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
本光寺(ほんこうじ)は、新潟県佐渡市宮川にある日蓮宗の寺院。山号は日朗山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。六老僧の日朗菩薩が佐渡流罪の赦免状を披見した場所。至孝第一日朗聖人遺骨を祀る。立正大師日蓮が座った赦免石や袈裟を掛けた袈裟掛けの松近くには日蓮と日朗が再会した日朗坂等が残る。
-- 歴史 --
日行(朗門の九鳳の一人)が師の日朗を開山に創建、慶長元年(1596年)地鎮が再興という。
WEB上には、日朗山本光寺≠ノ関しての、こんな興味深い記載もありました(^_^)v
◆日朗山本光寺(佐渡市宮川)
--- https://ameblo.jp/goreiseki1282/entry-12902609652.html 2018-09-03 20:11:38 ---
文永11(1274)年3月8日の夕方、日朗上人が命懸けで持ってきた赦免状は、日蓮聖人の手に渡りました!
その場所には「日朗坂」として題目碑がお祀りされています。
実はその昔、日朗坂にはお寺があったそうです。
しかし付近を流れる小倉川の氾濫で、そのお寺は現在、日朗坂から400mくらいかな、西に行った高台に移転されています。
日朗山本光寺です。日朗上人の偉業に感謝している山号ですね!
立派な題目碑がありますね。
わ〜、お祖師様の550遠忌に建てられたんですね!
山門です。佐渡ご赦免の聖地に、入ってゆきます!
本堂です。
華美ではないけど存在感のある、そんなお堂です。
本堂横に…ありました!赦免石(しゃめんせき)です。
日朗上人から手渡された赦免状を、この石に腰掛けてご披見されたそうです。
寒く、空腹で、孤独で、なにより理不尽で辛かったこれまでの2年4ヶ月余り…日蓮聖人はこの石に腰掛けて何を思われたでしょう。
その気持ちを想像しながら、合掌しました。
袈裟懸けの松です。
大きな仕事を終えた日朗上人と、そして日蓮聖人は、松の木に袈裟を掛け、お互いに労をねぎらったことでしょう。
お寺の縁起によると、このお寺を開いたのは日朗上人のお弟子さん、九老僧の妙音院日行上人だそうです。
日行上人は日蓮聖人苦難の地・佐渡を訪問した際、ここ日朗坂や赦免石を見て去るに忍びず、きちんとご霊跡を残すことを決意しました。
師・日朗上人を開山に仰ぎ、自らは二祖になり、62才で遷化されるまでこのお寺で修行を積んだといいます。
◇佐渡に赦免状が届く
--- http://www.kujhoji.or.jp/denki.e/sub16.htm ---
本尊を書かれた後も信者の数が増え、佐渡の寺々は、「自分たちが食べられなくなるから、日蓮を何とかできないものか」と相談して、鎌倉へ訴え出ました。
佐渡の守護職宣時(のぶとき)は「日蓮の信者は牢へ入れよ」と命令を下したものの、「立正安国論」の予言通り、内乱が起こり、蒙古の来襲が近づき、幕府はあわてて、弟子や信者を牢から出しました。
信者は聖人の赦免運動を考えましたが「仏さまにまかせるよう」戒められ、ついにその時がきました。
弟子の日朗上人は、はやる気持ちをおさえつつ、首にしっかりと赦免状を掛けて、佐渡へ迎えに行きました。
二年五ケ月の佐渡の生活。島の人たちに別れを告げられた聖人は、三月十三日真浦(まうら)を出発して新潟の柏崎に到着、二十六日に鎌倉へ戻られました。
…と、こんな日朗山本光寺≠ナすけど、何故か皆さん、本光寺≠ヨの参詣もなく大膳神社≠後にされましたネ(^-^)//"











■2025年12月23日21:52
10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(46)
ところで、佐渡島には、島内のアチコチに立派な能舞台≠ェあるような気がしますけど、何故なんでしょうネ。
最後に、また、ChatGPTに質問してみました。
◆何故、佐渡島には能舞台が多いのでしょう?
◇佐渡島に能舞台が多い理由は、主に次のような歴史的・文化的背景が重なっているためです。
@世阿弥が佐渡に配流されたこと
室町時代、能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)≠ヘ、将軍・足利義教の不興を買い、1434年(永享6年)に佐渡へ流罪となりました。
佐渡滞在中も世阿弥は能の精神と技を伝えたとされる。彼の存在が、佐渡における能の“精神的な源流”となりました。
佐渡は「世阿弥終焉の地」と伝えられるほど、能と深い縁を持っています。
A流人文化としての能の定着
佐渡は古来より流刑地であり、公家・武士・文化人が多く流されてきました。
都の文化を知る人々が、芸能や教養を島に伝えた。能は「武家の式楽」であり、流人たちの精神的支えでもあった。
結果として、能が島の各地に根付いていきます。
B神事・奉納芸能として広まった
佐渡では能が、神社の祭礼や奉納芸能として盛んに行われました。雨乞い、五穀豊穣、疫病退散などの祈り、神前で演じるため、神社境内に能舞台が造られた。
そのため現在でも、春日神社、牛尾神社、羽茂大崎神社など、神社付属の屋外能舞台が多数残っています。
C領主・金山による保護
江戸時代、佐渡は佐渡金山を抱える重要地でした。
幕府や代官による文化保護、地域の有力者が能楽を支援。
これにより、農村部にまで能舞台が建てられるという、全国的にも珍しい状況が生まれました。
D現在まで受け継がれる「佐渡能」
佐渡では今も、素人能(地謡・子方)集落単位での奉納能が続いています。
その結果、人口比で日本一とも言われる数の能舞台が現存しています。
-- まとめ --
佐渡島に能舞台が多い理由は---世阿弥配流という決定的な歴史、流人文化がもたらした都の芸能、神事として地域に根付いた奉納能、金山を背景とした文化的余裕、
これらが重なり、「能が生活文化として残った島」≠ノなったためです。
佐渡を歩くと、集落の神社にひっそり佇む能舞台が多いのは、まさにこの歴史の証なのですね。
…と言う事で、佐渡には能舞台が数多く存在しますようであります(^-^)/
それでは、大膳神社∞佐渡大膳神社能舞台≠ニお別れし、両津港へと向かいます。
佐渡滞在3日間で、佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」≠フ参詣も終え、後は福山へと帰りますのみ。A.M.11:15・両津港発ジェットフォイルで新潟港に向かいますけど、心配なのがジェットフォイル≠フ船酔いです。
今朝のウォーキング時には、比較的穏やかそうな波に見えましたけど、船酔いの辛さを十二分に味わいましたので、ウエルシア≠ナ求めましたアネロン「ニスキャップ」≠乗船までの待ち時間を利用し服用です。
『酔ってからでも効く』との事ですから、これで大丈夫と思います(^-^)
昼食は、持ち込みました弁当を船内で。
さて、どぅしたものか…と、暫し思案後、酔い止め薬を服用済みですから、きっと大丈夫…と、弁当は戴きます事に。
昼食を終えますと、ひたすらジッとしておりまして、楽な姿勢を維持。新潟港に到着を今か、今かと、待つのみでありました。が、波が穏やかでしたのか、GONsanばかりでなく他の方々も大丈夫のようでしたネ(^.-)☆
笑顔で新潟港に到着でした(^.-)☆
新潟→大阪≠ヨのフライトまで、まだ2時間半ばかり時間がありますので、この間は「道の駅新潟ふるさと村=vで自由時間。
お土産を求められます方…新潟ふるさと村%烽散策されます方…と様々ですけど、GONsanも、施設内をブラブラと散策してみます事に(^-^)//"









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