妙性山 玉泉寺
2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <8/24>

 

 

 

 

 

 ■2025年11月21日22:08
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(15)


 相川公園内の中央部には、何か分かりませんけど、モニュメントと言うか記念碑が…
 石碑は、柱状の石碑(オベリスクに近い形)で、周囲に小さな石柱(柵状の石)が配置されており、記念碑的なモニュメントとして整備されたもののように見えます。
 文字が刻まれておりましたけど、画像に撮りますのは失念です(^-^; 確か恩賜金記念碑≠ニ刻まれていましたような…
 ChatGPTに尋ねてみましたら、こんな回答が…


 ◇根拠・解説
 ・相川公園に記念碑があるという記録がある
 「…相川公園内にある『恩賜金記念碑』」という記述が、相川地区の資料に見られます。
 ・恩賜金記念碑とは
 恩賜金とは、日本で天皇・皇室から下賜される寄付金などを指す言葉。
 この記念碑は、かつて鉱山が国や皇室と関係を持っていたことなど、歴史的な意味を持って建立されたものと思われます。
 相川は佐渡金銀山の中心地域であり、鉱山町としての文化的景観が重要視されている場所です。
 ・形状が一致している
 あなたが撮影した碑は柱状の石碑で、周囲に小さな石柱(または柵状の石)が配置されており、記念碑的なモニュメントとして整備されたものに見えます。
 恩賜金記念碑は相川公園のランドマークのひとつとして紹介されており、公園にモニュメントがあるという情報と合致します。


 …との事で、よく分かりませんけど『この記念碑は、かつて鉱山が国や皇室と関係を持っていたことなど、歴史的な意味を持って建立されたものと思われます』ようです(^.-)☆
 この記念碑の後方の水色っぽい建物は、左側が関東信越国税局 佐渡税務署≠ナ、右側が相川測候所≠ナあります。
 そして、相川公園に隣接のワイドブルーあいかわ≠ニ表示されました建物ですけど、通過しながら眼を向けますと、もぅ久しく利用しておられません状況で、荒れ放題。以前は、何に利用されていましたのでしょうネ。WEB上でワイドブルーあいかわ≠検索しますと、こんな記載が…


 ◆ワイドブルーあいかわ

 旧相川町の海岸に面して建つ日帰り温泉施設。さまざまな浴槽と温水プールなど施設も充実している。海岸にある施設なので、広々とした浴室の窓からは日本海を望むことができる。
 開放的で明るい大浴場にはバブルバス・打たせ湯・サウナ・ミストサウナのある「おけさの湯」とジャグジー・ジェットバス(寝湯)・サウナのある「こがねの湯」があり週替わりで男女が交替する。
 無色透明のお湯がじんわりと体の芯まで温めてくれる。
 特に夕刻には、海を望む一面のガラス窓が真っ赤に染まるのは感動的。
 館内は広く、畳敷きや椅子席の休憩スペースが用意されており、ゆったりと過ごせる。
 ・2017年(平成29)、経営悪化から、当初閉鎖の予定であったが、市民から継続の要望が強く、5月31日付で市内の製造業「南秋北陸生コン」に譲渡された。
 ・2018年(平成30)、7月に浴室の天井が落ちたことで天井裏を点検したところ想像以上に傷んでいたことから休館。
 ・2019年10月13日(日)から相川温泉「佐渡の宝・ワイドブルー」として営業を再開する。
 2020年10月、閉業。新型コロナ禍が訪れ、緊急事態宣言に伴って、2020年4月から長期に休館してきたが、そのまま廃業となった。


 …と、こんな「ワイドブルーあいかわ」でありました。
 そぅそぅ、佐渡島には、大手コンビニとしましてはローソン≠フみのようですネ。
 ユッタリと歩いておりましたけど、気が付けばいつの間にかホテル万長≠フ建物が面前に(^-^)
 ホテル前の信号を渡ろうとしましたら、お一人、ジョギングしておられます方が…今朝の早朝ウォーキングで出会いました方は、この方で4人目。いずれも、地元の方達でしたネ。
 ホテルに戻って来ますと、暫くユックリしまして、そして朝食。メニューも量も豊富で、昨夜に続いて満腹状態。日頃イィ物を食べていませんから、つぃつぃ食べ過ぎになってしまいます(^.-)☆
 佐渡島2日目は、まず佐渡金山坑道≠観光ですけど、出発まで少し時間が有りましたので、フロント前のロビーでノンビリと。
 ロビーを見廻しておりまして眼に入りましたのが、EVトライク レンタル≠ナす。レンタルの三輪バイクですネ。後部席には二人座れそうな…と、言う事は3人乗りですネ(^_^)v
 料金は、1日6,600円、2時間3,300円、超過1時間毎1,100円のようであります。利用者がありますのか否か分かりませんけど、利用しますと楽しそうではありますネ(^-^)
 ガラス越しに外の様子を伺いますと、護岸に、玉泉寺ご住職が凜々しく腕組みしたお姿で…何を見つめ、何に想いを…
 そぅしていますと、出発時間が到来です。
 バスに乗り込み、まずは佐渡金山≠ヨ。程なく到着で、車窓から道遊の割戸≠ェ(^-^)//"


 ◆道遊の割戸
 -- 壮大な採掘跡を残す佐渡金山のシンボル --
 佐渡金銀山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になっています。山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達します。道遊脈と呼ばれる脈幅約10mの優良鉱脈を有しており、明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年11月22日20:03
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(16)


 バスから降りまして、いよいよ史跡・佐渡金山≠観光ですけど、史跡 佐渡金山「共通券」≠ナ宗太夫坑∞道遊坑≠フいずれにも入れますようですネ。
 以前は、それぞれ入場料を課せられていたようですけど、史跡・佐渡金山≠ェ世界遺産に登録後は、いずれかの料金で両方とも入れますとか(^_^)v
 道遊の割戸≠ヘ後から拝見します事にし、皆さんに付いて、まず宗太夫坑≠ヨと入場です。


 ◆宗太夫坑
 国史跡「宗太夫坑」は江戸時代の初期に開削された手掘り坑道です。佐渡金山最大の鉱脈「青盤脈」の西端に当り、坑道は大型で、江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道、斜坑、小型の探索坑道、空気を入れる為の煙穴などが数多く残されています。

 ◆佐渡金山 Sado Gold Mine
 相川金銀山は、徳川家の直轄地となった慶長6(1601)年以降、本格的に開発された。平成元(1989)年3月末採掘が中止されるまで約400年間掘り続けられ、鉱山としての寿命が長かったことでは世界でも珍しい鉱山である。
 江戸時代には徳川幕府の財政を支えたとも言われ、17世紀当時の金、銀の生産額は南米のポトシ鉱山(ボリビア)などと並んで世界でも屈指と言われた。

 ◆釜の口 Kama-no-kuchi
 間歩(まぶ/坑道)の入口のことで、柱を4本立てて構築したので四ツ留(よつどめ)とも言われた。

 ◆佐渡金山

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 佐渡金山(さどきんざん)、または佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合、相川のものを指す場合もある。このほか「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられる。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。

 ・概要

 佐渡島には下表に示す4つの主要な金銀山を含む、多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川は規模が大きく、国の史跡や重要文化財に指定、または重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っていることもあり、現在では佐渡における観光の拠点ともなっている。

 -- 佐渡島内の主な金銀山 --
 西三川砂金山(にしみかわ) 採掘開始時期--平安時代以前 閉山年--1872年(明治 5年)
 鶴子銀山(つるし)   採掘開始時期--戦国時代   閉山年--1946年(昭和21年)
 新穂銀山(にいぼ)   採掘開始時期--戦国時代以前 閉山年--不詳
 相川金銀山(あいかわ)   採掘開始時期--江戸時代初期 閉山年--1989年(平成元年)

 佐渡島内鉱石は、主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。

 ・歴史

 -- 前史 --
 『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり、伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れることに言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には、少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。
 天正17年(1589年)に上杉景勝により本間氏が滅ぼされ、佐渡は上杉領となる。
 相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。そのため戦国大名の上杉謙信が関わった記録はない(鶴子銀山は既に採掘されていた)。新田次郎は小説『武田信玄』において佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、そもそも戦国時代の佐渡は本間氏の領国であって上杉氏は領有していなかった。

 -- 江戸時代 --
 慶長6年(1601年)、徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代における最盛期は17世紀前半、江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数で、慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。
 しかし江戸中期以降、佐渡鉱山は衰退していった。元禄3年(1690年)には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。
 江戸時代後期の明和7年(1770年)頃からは、江戸や大坂などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。
 水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者は、この佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足を収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。

 -- 明治以降 --
 明治初期から官営(当初は工部省の所管。農商務省、大蔵省を経て1889年から宮内省御料局の所管)となるが、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は1869年(明治2年)に西洋人技術者を鉱山に送り、火薬採掘や削岩機、揚水機といった西洋の近代的技術の導入を開始した。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、日本の金属鉱山で史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成した。
 1885年(明治18年)、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行するため、佐渡鉱山のさらなる増産を目指すようになり、高任立坑の開削、ドイツの新技術の導入による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていった。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校が開校し、日本の鉱業教育に重要な画期となった。
 1896年(明治29年)、皇室財産だった佐渡鉱山は兵庫県の生野鉱山などと三菱合資会社(1918年に三菱鉱業株式会社に改名、現三菱マテリアル)に払下げとなった。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進めた。その結果、明治後期には鉱山の産金量は年間400kgを超え、江戸時代における最盛期だった17世紀前半並みの産出量に戻っている。その後も産出量は増えていき、特に1931年(昭和6年)の柳条湖事件後に中国大陸での戦火が拡大したことで、大量の軍需品輸入の代金決済手段として金の需要が増加したことで佐渡鉱山でも金増産体制が強化され、1940年(昭和15年)には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500kgの金と約25トンの銀を生産している。
 鉱山労働者の管理は、当初は三菱鉱業から労働者の雇い入れや管理を任されている部屋頭による「部屋制度」(納屋制度)で運営されていた。この制度は佐渡鉱山の労働力供給に大きな力を発揮していたが、部屋頭による中間搾取も多かったため、労働者の権利意識の高まりの中で1899年(明治32年)以来労働争議がしばしば発生するようになり、特に1922年(大正11年)5月には650名の鉱山労働者が参加する大規模な労働争議が発生した。そのため三菱鉱業は1926年(大正15年)1月に労働係を新設して労務管理を強め、部屋制から直営制度へと経営方針を転換し、労働者の不満を緩和する処置をとった。また1904年(明治37年)には23床の入院施設を持つ病院(鉱山病院)を設置し(1934年の改築で病床数32床に増加した)、鉱山関係者の軽費診断所として利用された。
 第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れ、むしろ戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになり、佐渡鉱山でも銅の採掘が増える一方、金の採掘は減少した。また戦時中には朝鮮人労働者が大量に動員された。戦時中も佐渡鉱山は大きな成果を上げ続け、1943年8月には椎名悦三郎商工省次官が鉱山労働者の激励のため佐渡を訪問している。同年10月には商工、厚生両大臣から表彰も受けた。これを祝い、佐渡鉱業所は全従業員及び地元相川町民に対する感謝慰安で同月30日夜に協和会館で万才に浪曲の演芸会を開催している。
 戦後の1952年(昭和27年)、三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定した。1976年(昭和51年)には佐渡鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立し、細々と採掘が続けられていたが、最終的に1989年(平成元年)に休山となった。1989年の休山までに佐渡鉱山が算出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶ。
 現在は、三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が運営しており、体験型観光施設「史跡 佐渡金山」として一般公開されている。2024年(令和6年)7月インドで開催された第46回世界遺産委員会において、佐渡金山は「佐渡島の金山」として世界文化遺産に登録されることが決定した。


 …と、こんな歴史の有ります佐渡金山≠フようです(^-^)//"

 

 

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