妙性山 玉泉寺
2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <22/24>

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年12月20日21:59
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(43)


 本堂を拝観しましてから祖師堂に向かい、御開帳です。
 が、祖師堂までご案内して下さった方が妙宣寺住職・関道雄≠ウんだと思うのですけど、祖師堂での御開帳は、メモ書きのようなモノを玉泉寺・難波住職に手渡され「導師をやって下さい」と依頼されておられたような…
 んっ!?…この方は妙宣寺住職・関道雄≠ウんではなかったのか…と、この時は思っておりました。関住職がご不在だから難波住職に依頼されたのだと(^-^)
 事情はともかく、当の難波住職は大感激ですよ。
 永い歴史のあります妙宣寺≠フ『貫首』の座におられます感じで、満面の笑み。どなたかに、本気とも冗談とも取れます「写真撮っておいて!」の依頼には、思わず笑ってしまいましたGONsanであります。
 イイ画像が撮れましたら、家宝にされますのかも(^-^)
 御開帳を無事終えましても、暫くは満面の笑みが続いておりました難波ご住職でありました(^_^)v
 で、後で分かりましたけど、難波住職に御開帳の導師を依頼されました方は、やはり関住職《anでありました。もぅご高齢で滑舌面・体調面等の要因から、導師を難波住職に依頼されたのだろう…と、勝手に想像しております(^-^)
 ここで、また、ChatGPT≠ニ会話です(^-^)


 ◆お寺の御開帳で、導師を務められますのは、通常はどなたが?

 ◇ChatGPT:一般的に お寺の御開帳で導師(どうし)を務めるのは、次のような方です。

 -- 基本的な原則 --
 そのお寺の住職が導師を務めるのが最も一般的です。御開帳は本尊・秘仏を公に拝観できる特別な法要ですので、寺院の責任者である住職が中心となります。
 一般的に お寺の御開帳で導師(どうし)を務めるのは、次のような方 です。

 -- 例外・補足的なケース --
 御開帳の規模や性格によっては、以下のような場合もあります。
 ・前住職(隠居住職)
 現住職が若い場合や、前住職が長年寺を支えてきた功績がある場合。
 本山・大本山から派遣された高僧
 ・宗派の管長
 ・本山の貫首
 ・宗派内で格式の高い僧侶
 特に、◯◯年御遠忌・大開帳などの大法要では多く見られます。
 開基・中興ゆかりの寺院の住職
 その仏像や寺の由緒と深い縁を持つ寺院の住職が導師となる場合。
 複数日開催の場合
 日によって導師が交代し、
 ・初日:本山高僧
 ・中日:地元住職
 ・結願日:当寺住職
 といった構成になることもあります。

 -- まとめ --
 通常:当該寺院の住職
 大規模・記念的御開帳:本山や宗派の高僧
 由緒重視:縁の深い寺院の住職
 御開帳は宗派・寺格・行事の目的によって運営が大きく異なりますので、特定のお寺や御開帳を念頭に置かれているようでしたら、それに即してもう少し具体的にご説明できますよ。


 …と、こんな回答が、ChatGPTからありました(^.-)☆
 とにかく、ご満悦な難波住職のお顔が、ヤケに印象に残ってしまいましたネ(^-^)/
 御開帳を終え、境内に出て来ますと、今一度、境内を拝観です。
 日野 資朝(ひの すけとも)≠フお墓の前には、永年の風雨で読みにくいのですけど日野 資朝≠フ説明板が…何と記載されていますのかは、不明です(^-^;
 WEB上で捜しますと、こんな記載のようであります。


 ≪現地案内看板≫

 日野資朝の墓
 後醍醐天皇の正中二年(一三二五)十二月、日野資朝は北條高時のために佐渡に流され、壇風城に幽閉されること七年、元弘二年(一三三二)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。
 遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。
 資朝は明治八年真野宮に合祀され同十七年に従二位を贈られた。
 
-- 真野町教育委員会 --

 お墓の傍らには、日野資朝の歌碑が…
 『秋たけし 檀の梢吹く風に 雑田の里は 紅葉しにけり』山本修之助謹書

 ◆檀風城跡

 本間氏は、鎌倉時代佐渡国守護大佛氏の守護代として入国した。室町時代の雑太地頭といわれた本間氏の祖である。
 本間氏の本拠は何度か移り変わるが、鎌倉初期の本拠は波多郷(現畑野)に居館がおかれていた(元の雑太城)。この地は律令時代の佐渡国衙の跡と推定される場所であり、本間氏が居館として再利用したものであろう。
 低地に突き出た標高4mほどの台地に築いた単郭で周囲を取り囲んだ土塁が今も残る。
 日野資朝を預かることになった本間山城入道(泰宣)は、この居館の牢内に資朝を幽閉した。
 幽閉中の資朝が詠んだ歌「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に雑太(さわた)の里は紅葉しにけり」から、檀風城の名で呼ばれるようになったという物語は江戸時代にはいってつくられたもので、当時の呼び名ではない。
 資朝の子阿新丸が父との面会を求め、山城入道を訪ねたのもこの居館である。


 番神堂≠フ前には、こんな案内板がありました。

 ◆番神堂
 法華経守護と当山鎮護の為に各善神を奉祀する。
 一、妙見大菩薩 -- 北極星の化身といわれ日本国総鎮護の善神。
 一、三十番神 -- 日本国内の主神三十体で毎日の当番守護神。
 一、清正公 -- 法華経信者の代表として昔から諸人の信仰を集めている。

 それから、庫裡≠フ説明板も…

 ◆庫裡
 文久二年再建(1862)
 間口八間(145m)奥行二十間(36m)の大建築にして用材はすべて当国産の赤松で八間の通し梁が六本並列している。
 大黒柱は二尺五寸(76cm)に一尺七寸(52cm)の角材で佐渡随一である。棟高は八間半(155m)破風造りの茅葺大屋根は全国にも珍しい。


 …との事で、それでは今から庫裡≠拝見です(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年12月21日17:29
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(44)


 WEB上で日野資朝の墓≠検索していましたら、9年ばかり前に撮られました「日野資朝の墓」の説明板が…う〜ん、この画像でしたら鮮明に読めますネ。

 ◆日野資朝の墓
 正中二年(1325)後醍醐天皇の側近、日野資朝は倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府執権北條高時により佐渡に流された。檀風城に幽閉されること七年、元弘二年(1332)に城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。遺体はここで荼毘にふされ、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。資朝は明治八年真野宮に合祀むされ同十七年に従二位を贈られた。


 それでは、庫裡へ。
 庫裡へ入りますと、まず眼に入りましたのが立派な大黒柱≠ナす。この大黒柱≠フお話しは、関道雄ご住職の姉と言われましたか…妹と言われましたか…この方が、詳細にお話しを(^.-)☆
 庫裡の土間の傍らには、愛≠フ文字を付けました兜で連想させます上杉景勝の佐渡攻めで活躍した直江兼続≠フ奉納と伝わる槍の穂先も並べられ、上杉景勝制札≠燗W示されておりました。


 ◆阿仏房妙宣寺関連の歴史まとめ

 1242年(仁治3)順徳帝、佐渡島にて崩御。北面武士遠藤為守と妻千日尼出家
 1271年(文永8)日蓮上人佐渡へ流罪。阿仏房日得と千日尼、日蓮の生活を援ける
 1273年(文永11)日蓮赦免
 1278年(弘安1)阿仏房日得と千日尼、金井新保の自宅を寺とする
 1279年(弘安2)阿仏房日得、死去
 1324年(正中1)「正中の変」日野資朝、佐渡へ流罪
 1326年(正中5)真野竹田の地に妙宣寺移転
 1331年(元弘1)「元弘の乱」翌年日野資朝、刑死
 1339年(延元4)後醍醐天皇、崩御。南朝は後村上天皇即位
 1589年(天正11)上杉景勝の侵攻により佐渡平定。直江兼続が雑田城(さわたじょう)を廃し、妙宣寺を現在地へ移転させる
 1827年(文政10)五重塔、立塔 


 上杉景勝制札≠ノ関しましては、WEB上に、こんな記載が…

 ◆佐渡市指定 有形文化財:上杉景勝制札

 指定年月日:平成16年3月1日
 所在地:佐渡市阿佛坊、国分寺、金丸
 所有者または管理者:妙宣寺、佐渡国分寺、引田部神社
 これら3点の制札は、真野地区阿佛坊の妙宣寺、同地区国分寺の佐渡国分寺、同地区金丸の引田部神社がそれぞれ所有している。制札とは、支配領域の秩序や寺社・村落・市場などの保護を目的として、領主が軍勢に禁止事項や規制条項を命令した札のことで、主に路傍や寺社の境内などに掲げられた。
 この制札は、天正17年(1589)6月に越後(現新潟県)の上杉景勝が佐渡地頭本間氏とその一族を討って佐渡を所領とした後、島内一般に公布されたものである。この制札には諸軍勢の乱暴狼藉を戒め、竹木の剪採を禁ずるとの命令が記され、景勝の朱印が押してある。朱印は直径6.2cmの正円で、上部に亀の頭のような2cmの凸出部があり、円部は二重郭陽文である。
 上杉氏が佐渡を所領とした直後の様子を伝えるものであり、上杉氏や戦国大名の領土経営を研究する上で貴重である。

 …と、こんな「上杉景勝制札」のようであります。
 妙宣寺≠フ説明書きは、こんな内容で(^-^)


 ◆伝・直江兼続寄進の鑓の穂先

 天正17年6月、越後上田衆や与板衆を引き連れ景勝に従軍した直江兼続が佐渡制圧の後、妙宣寺に寄進したとされる鑓の穂先である。
 妙宣寺蔵の「当山宝物略説」の中に「後長尾景勝制札並びに家臣直江山城守墨付これ有り」という一項があり、また「阿仏房什物」記の中には、「景勝禁制札一通、直江兼続寄進状一通」という項も見られる。
 この直江の墨付とか兼続寄進状というのが寺地安堵状のことで、「寺内前々の如く諸式相違有るべからず」と記している。江戸時代のこれらの記録の中には直江寄進の鑓の穂先について記録はないが、大正期に書かれた什物の中には「直江山城守寄進の鑓」が記述されている。
 鑓は南北朝時代から使われ、室町時代に盛行する刺突武器である。使用法が簡易で武道に経験の浅い者でも効果を挙げる事が出来たので戦国時代の頃には主要武器として盛んに使用された。
 穂(身)は直線型(素槍)、十字型(十文字鑓)、釣型(片鎌)の三つがあり、刃の部(穂)が刀身のようになかご(中心)造りになっていて柄に挿入する。柄は強靱な木を用いるのが一般である。穂の長さは二、三寸ほどのものから三尺くらいの大身の鑓と呼ばれるものがあり、通常は六、七尺くらいのものが多かった。柄も長さ七、八尺から一丈二、三尺ほどのものもあった。
 当妙宣寺の鑓の穂先は木箱の中に納められており、箱の蓋の内側に「直江山城守兼継奉納槍」と墨書がある。穂先の長さ約八十センチメートル、幅三センチメートルほどの直線型(素槍)鑓である。

 ◆(歴第七号)指定書
 名称 上杉景勝制札

 (当該文化財の特徴を示す簡単な事項)
 制札は領主が支配領域の秩序を保ち、保護するための禁止事項や規制条項を領域の村落や寺社・宿駅などに文書形式で命令したものである。妙宣寺・国分寺・引田部神社が所有する制札は、上杉景勝が佐渡平定直後の天正17年6月にしたもので、諸軍勢の乱暴狼藉をいましめ竹木の剪採を禁じている。

 右を佐渡市民文化財保護条例に基づき佐渡市指定有形文化財に指定する。
 平成16年3月1日 佐渡市教育委員会

 ◆制札

 右当地於て、諸軍勢濫妨狼藉、並に竹木剪採の事、堅く停止せしめ(?)んぬ。若し違犯の輩これあらば、立ち所に於て成敗を加うべき由仰せ出し、御朱印なさる者也、仍て件の如し。

 【朱印】   天正17年6月 日    奉行中

 阿佛坊


 展示されています制札≠フ現物には、こんな内容で記載されていますのでしょうネ。
 それでは、この辺で妙宣寺《anとはお別れで、次は、ここから近くの大膳神社≠ヨ向かいます(^-^)//"

 

 

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