| 2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <21/24> |


■2025年12月18日13:26
10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(41)
こぅして本堂に向かって境内のアチコチを見廻しながら、カメラで眼に入ります景観を画像に撮りまくっておりますと、かって、佐渡守護代 竹田本間氏の居城「雑太城」があった場所だけに、現在も城跡の雰囲気が随所に漂っておりますネ(^.-)☆
かっての城郭を思わせる石垣の跡がシッカリと残っておりますし、永い歴史も感じさせ、落ち着いた実に立派な境内であります(^_^)v
◆雑太城(さわだじょう)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
雑太城(さわだじょう)は、佐渡国雑太郡(現在の新潟県佐渡市佐和田大字竹田字内新川)にあった日本の城(平山城)。別名は檀風城・新川城。中世に佐渡を支配した本間氏の居城であった。跡地は妙宣寺となっている。
-- 概要 --
新川の城山(50m)から山麓(比高5mほどの微高地)にかけて縄張りがされた平山城である。鎌倉時代から南北朝時代にかけて大佛氏の支配下にあったが、室町時代には守護代の本間氏が自立して戦国大名に成長した。同氏と越後の上杉氏は、謙信の時代には緩やかな従属関係を結んでいたが、次代の景勝は佐渡に侵攻して本間氏を排除した。
江戸時代に佐渡全域が幕府直轄領となると、本間氏や上杉氏が築いた建物は一国一城令で破却された。
-- 遺構・復元施設 --
・「檀風城址之碑」歌碑 -- 日野資朝の「秋たけし 檀の梢吹く風に 雑太の里は 紅葉しにけり」の歌碑。
・本丸跡の石垣 -- 石垣の前に「雑太城跡」説明版。二層の寺門が残る。
・土塁・空掘
-- 周辺施設・関連資料ほか --
・妙宣寺の五重塔 -- 新潟県唯一の重要文化財。
・新川城絵図 -- 『新潟県中世城館等分布調査報告書』。
・下国府遺跡 -- 檀風城の北東500mほどの位置で発掘された平安時代前期の遺跡。上国府(佐渡府内)に付随した施設。
境内には、山門の横に、正中の変で佐渡に流された公卿・日野資朝(ひのすけとも)の墓所もありました。
山門を潜り正面の本堂までの参道の左側には、順番に、番神堂∞宝殿∞祖師道≠フ建物が…そして、正面に本堂≠ナ、庫裡≠ェ右に隣接です。
参道の右手には三つばかり建物が…「阿佛房妙宣寺境内之図」を確認しますと納屋∞土蔵≠フ記載がありました(^.-)☆
境内には、天正17年(1589)に現在地へ移った際に妙宣寺の寺号を起こしたといわれている、日蓮聖人に帰依した佐渡人最初の檀那・日得上人のお墓もありましたネ(^-^)//"
◆日野資朝
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿・儒学者・茶人。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の次男。官位は従三位・権中納言、贈従二位。
中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った。
-- 経歴 --
正和3年(1314年)従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという。花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている。
元亨4年9月19日(1324年10月7日)、鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)。
元弘元年(1331年)に天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌元弘2年/正慶元年(1332年)に佐渡で処刑された。
『増鏡』「久米のさら山」によれば、処刑にあたり、資朝は落ち着きはらって前々から覚悟していたことだと述べ、都にいる子供たちへの手紙を武士に託すと、以下のような辞世の頌(じゅ)を詠んだという。
四大本無主
五蘊本来空
将頭傾白刃
但如鑚夏風 -- 日野資朝、『増鏡』「久米のさら山」--
この世界に本より実体はなく 人の肉体と精神もまたその本質は空である
今、まさに、我が首は白刃を揺らそうとしている
しかしそれもまた、夏の風を斬るようなものだ --?日野資朝、『増鏡』「久米のさら山」(大意) --
斎祀神社に佐渡市吉岡鎮座の大膳神社、佐渡市真野鎮座の真野宮、奈良県吉野町鎮座の吉野神宮がある。
なお、兄・資名は京都を追われた光厳天皇を最後まで守護した忠臣、弟・賢俊は光厳上皇の院宣を足利尊氏に届けるなど持明院統のために尽くしたことで知られ、兄弟で敵味方で分かれている。
-- 逸話 --
資朝が後醍醐天皇に登用される話は、兼好法師の『徒然草』に記されている。また『太平記』には資朝の子の阿新丸が敵討ちを遂げる逸話もある。
身分の上下を越えて才人を集め、無礼講という茶会を主催した(『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)11月1日条)。これは茶道の前身である闘茶や、俳句・俳諧の前身である連歌会の源流ともされ、文化史上で大きな役割を果たした。なお、軍記物語『太平記』では、この無礼講が討幕計画の会であったり、美女を侍らす酒宴であったりと否定的に描かれているが、それを肯定する同時代の史料・実証的証拠はない。
◆日得
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
阿仏坊日得あぶつぼうにっとく、阿仏房とも)は鎌倉時代における、日蓮宗の信徒。
順徳天皇に仕え、従四位上に叙せられる。和漢の学に通じ、歌道にも上達していた。承久3年(1221年)に承久の乱により佐渡島に流された天皇に従って、仁治3年(1242年)に崩御するまで側近く仕える。その直後に妻である千日尼(せんにちに)とともに剃髪し、30年間も天皇の陵に廬を結んで住む。もともと浄土宗を深く信仰し、念仏怠りなく、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流され、塚原に潜んでいたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて84歳で弟子となる。文久11年(1274年)に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら三度、身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山した際に、日蓮は大いに感激して「日得」の名を与えた。その翌年に寂す。
阿仏房に関しては、承久の乱の時に佐渡に流された順徳上皇のお供の武士で、藤原氏であったという説や、佐渡の人であったという説もあり、定かではない。ただ入信以前は、熱心な念仏の信者であった。弘安2年(1279年)3月21日、91歳で亡くなるまでの間、阿仏房は老齢にもかかわらず、遙かに海山を越えて、身延の日蓮のもとへ三回も登山参詣をした。日蓮から「北国の導師」と称えられた。阿仏房の曽孫に当たる如寂房日満も、幼少より富士の日興のもとに参じて行学に励み、北陸七ヵ国の門下の別当に任じられている。

■2025年12月19日18:40
10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(42)
境内を見廻しておりますと、こんな説明板がありました(^.-)☆
◆祖師堂
明治13年再建(1880)六間(11m)四面三方縁造り宗門最古の宗祖御木像(文永11年(1274)在銘)並びに当山開山阿仏坊日得上人、千日尼御前、捨身供養の御木像を安置す。
◆本堂
文久3年再建(1863)十二間(22m)四面の大堂で島内最大の堂宇。江戸期本堂建築の様式を今に残している。
堂宇≠ニは何を意味するのか、WEB上で検索してみますと、
◆堂宇
--- 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
堂宇(どうう)は、四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物。
-- 種類 --
仏 堂:仏教寺院の堂宇。金堂、本堂、講堂、法堂など。
灌頂堂:密教の灌頂の儀式を執り行うための堂宇。
護摩堂:護摩供の儀式を執り行うための堂宇。
栄螺堂:札所巡礼を模して堂内に螺旋状の通路を設けた堂宇。
持仏堂:念持仏を堂内に安置した個人の堂宇。
鎮守堂:神仏習合により堂内に明神や権現を祀る堂宇。鎮守神を参照。
辻 堂:村落の辻などに建てられた地蔵や観音、薬師などを本尊とする民間信仰の堂宇。
…との事で、「四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物」と言う意味でありました(^-^;
本堂に上がりますと、本堂等の建物内の写真撮影はダメなんだろうなぁ…と、写真を撮りますのは控えておりましたけど、皆さん、遠慮なくパチリ、パチリ。これ幸いとドサクサに紛れてGONsanも撮りまくりとなりましたけど、妙宣寺sanごめんなさいです(^-^;

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