妙性山 玉泉寺
2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <20/24>

 

  

 

 

 

 

 ■2025年12月16日19:29
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(39)


 改修中の倉庫がありましたけど、これが大間煉瓦倉庫≠ナすネ。


 ・煉瓦倉庫
 大間港の南東部に立地する煉瓦倉庫は、煉瓦造2階建、切妻造妻入桟瓦葺の建物です。外壁は煉瓦化粧積。イギリス積で構成され、要所に自然石を用いてアクセントとしています。
 内部は1、2階共に1室で、2階は裏(北)側3/5を床とし、表(南)側は階段、踊場を設けた吹抜です。明治時代後期から大正時代までには建築されたと考えられています。


 倉庫の前には、こんな大間煉瓦倉庫≠フ説明板もありました(^.-)☆

 ◆大間煉瓦倉庫
 大間煉瓦倉庫は、鉱石や鉱山で使用する資材を収用する目的で、明治時代後期から大正時代に建築されたと考えられています。
 外壁の練瓦は縦と横を交互に積み重ねる練瓦積みで組まれた練瓦造2階建て、切妻造妻入桟瓦葺きの建物になります。
 老朽化が進む中、令和6年の能登半島地震時に一部破壊したことにより修繕作業を行っています。


 …との事であります。
 大間港跡≠ニお別れしますと、帰路は、前日同様に市営栄町住宅♂。の護岸をノンビリとホテル万長≠ヨと向かいます。
 相川総合体育館・相川地区公民館裏を通過し、佐渡市役所相川支所裏まで戻って来ますと、ここには、両腕が地中から覗きましたこんなモニュメントが(^-^)
 このモニュメントは、ライリー・テリー″の「WAKARIMASEN」と言う作品のようであります(^.-)☆
 WEB上でモニュメント/ライリー・テリー作「WAKARIMASEN」≠検索してみますと、こんな記載が出て来ました(^.-)☆


 ◆さどの島銀河芸術祭 -- @sado_art --

 ・場所:相川支所駐車場(佐渡市相川塩屋町26)、さどの島銀河芸術祭2021に制作された作品。音を鳴らして作品を体感してください。
 ・詳細:https://sado-art.com/artists/wakarimasen

 ◆DOMMUNE Presents 「LANDSCAPE MUZAK」PROJECT SADO#1

 --- https://on-the-trip.net/indices/12156?locale=ja ---

 作者はカルフォルニア生まれ。彼にとってアメリカのゴールドラッシュと佐渡の金山が重なり、相川で作品を制作することになりました。しかし、実際に佐渡を訪れた作者にとって、その背景は知れば知るほどわからないことばかり。彼が最初に覚えた日本語も「わかりません」という言葉でした。
 そこで、作者は自身の手をモチーフにしたオブジェを制作。その指からチャイムがぶら下がり、それを叩くと「Wakarimasen」のメロディーが響きます。この作品はまるで手から「わかりません」を奏でているようにも感じられます。
 現在、この作品が設置されている場所に違和感を覚えたあなたは鋭いです。実は、作品が完成した当初は「佐渡奉行所」の駐車場の脇にありました。そこからは、まるでローマのコロシアムのような金鉱の跡地を見下ろすことができます。その場所に作品があったことを想像すると、それは金山に捧げるレクイエムのように感じられたかもしれません。
 しかし、現在は別の場所に移動することになり、作品は本来の場所から切り離されました。そのため、メロディーは金山に届かなくなったようにも見えます。この逆説的な状況は、アートが本来の場所と強く結びついていたことをあらためて感じさせます。
 その金鉱で、作者がライブを行ったこともありました。それも夜から明け方にかけて。暗闇の中、静かな音からはじまり、明け方の光が差し込むにつれて生命が目覚めるように音楽は展開していきました。建物には音が反響し、音楽が自然の一部となり、時間の感覚が失われる中、最後の一音が鳴り響いたといいます。


 …と、こんな経緯のありますモニュメントでありました。
 このモニュメントの指からぶら下がっていますのはチャイムで、叩けばメロディが響きますとは…知っていましたら叩いたのですけど…う〜ん、これまた残念(^-^;
 相川公演裏を通過し、既に閉館となっています健康増進センター「ワイドブルーあいかわ」@に戻って来ました。かっては、旧相川町の海岸に面して建つ日帰り温泉施設で、さまざまな浴槽と温水プールなど施設も充実。海岸にある施設なので、広々とした浴室の窓からは日本海を望むことができ、結構、賑わっていましたのでしょうけど、2020年10月、閉業。新型コロナ禍が訪れ、緊急事態宣言に伴って、2020年4月から長期に休館してきたが、そのまま廃業となった。
 建物裏の護岸側に、遊具がポツンと二つばかり残されていますけど、これが一層、寂しさを感じさせましたネ。
 ホテル万長≠ノ戻って来ましての朝食後、佐渡滞在最終日の3日目は、妙宣寺℃Q詣からスタートです。


 ◆妙宣寺について

 --- https://temple.nichiren.or.jp/4031006-myousenji/ ---

 -- ごあいさつ --

 当山は阿佛房日得上人千日尼御前夫妻の旧蹟霊場である。
 日得上人、俗称遠藤左衛門尉為盛は、承久三年(一二二一)順徳上皇佐渡御遷幸に供奉せし北面の武士にて、その妻は上皇御還幸を祈願して真野の入江に水垢離を取ること一千日に及び、上皇はその誠を喜び千日女の名を与えたと伝えられている。
 仁治三年(一二四二)上皇崩御の後、佐渡の地に留まり陵墓に仕えて三十余年の間称名念佛を怠ることなく、遂には阿佛房と称するようになった。
 文永八年秋、日蓮大聖人には幕府の御勘気を蒙むり佐渡御配流となり、十一月一日塚原の地に調居の身となられた。
 「北海の島にはなたれしかば、かの国の道俗は相州の男女よりも仇をなしき・野中にすてられて雪にはだえをまじえ、草をつみて命をさふえたりき…」(当山所蔵単衣御書)
 念佛の強信者阿佛房は宗門の怨敵と思い大聖人を責めんとしたが却って教化帰伏し、当国第一の法華信者となり、妻千日と共に身命を省みず深夜密に食糧を運び供養を怠らず、諸宗僧俗の迫害から聖人を守る大外護者となった。
 「しかるに尼御前並に入道殿はかの国にある時は人目をおそれて夜中に食をおくり或る時は国の責をもは蛍からず身にも代わらんとせし人々なり、さればつらかりし国なれども剃りたる髪もうしろへひかれ進む足もかえりぞかし」(単衣御書)と身延の山より御手紙を送り、また「日蓮佐渡の国へ流されしかばかの国の守護等は国主の御計りに随いて日蓮を仇む万民はその命に従う…地頭念佛者等日蓮が庵室に昼夜立ち添いて通う人もあるをまどわさんとせしめに、阿佛房に櫃をおわせ夜中に度度御わたりありしこといつの世にかわすらむ、唯慈母の佐渡の国に生れ代わりてあるか。」(当山所蔵千日尼御返事)
とも記して阿佛房夫妻の徳を称えておられます。
 文永十一年三月十三日、法門開運の時いたり宗祖大聖人には御赦免鎌倉より身延へ御入山。
 阿佛房夫妻は常に大聖人を慕い申してはいても、八十の齢を超しては海山千里はままならず、阿佛房は男の身なればとて二度、三度まで身延の山を登詣し御給仕を尽くし、三度目の登詣は弘安元年七月、九十の高齢をも省みず一刀三礼お写し申し上げた宗祖のお姿を肩に負い身延の山に登られたので、大聖人には御親しく開眼をなされ、阿佛房の願いを入れてお弟子となし日得上人の名を与え、妻には千日尼御前の名を賜わった。

 ◆妙宣寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 妙宣寺(みょうせんじ)は、新潟県佐渡市阿仏坊にある日蓮宗の寺院。日蓮の弟子阿仏房日得が自宅を寺として開基した日蓮宗佐渡三本山のひとつ。山号は蓮華王山。本尊は釈迦如来。

 ・歴史
 言い伝えによれば、1221年(承久3年)の開創と伝えられる。
 1326年(嘉暦元年)、竹田に移転。
 1589年(天正17年)、現在地(雑太城跡)に移転。
 寛文年間に身延、池上、中山の輪番管理となる。
 1878年(明治11年)、輪番管理から独立する。現住は47世関日道貫首(佐渡市円静寺より晋山)。通師法縁。

 ・文化財
 -- 重要文化財(国指定) --
 五重塔 -- 新潟県内に現存する唯一の五重塔で]、江戸時代に相川の宮大工茂三右ェ門親子が二代に渡り建立したといわれ、日光東照宮の五重塔を模したとされる。文政10年(1827年)の建塔で、頂上の相輪に鋳工大坂住長谷川久左衛門元文5年(1740年)とあることから、およそ90年かけて建立されたことがわかる。また各層の高欄や浅唐戸がなく資金難のため未完成である。
 日蓮聖人筆書状 3巻
 細字法華経(一部)1巻 -- 日野資朝筆、元徳二年(1330年)奥書

 ・その他
 本堂:1863年(文久3年)、祖師堂:1880年(明治13年)、仁王門:1677年(延宝5年)、庫裡:1862年(文久2年)、祖師像:1274年(文永11年)


 山門を潜り、まずは五重塔≠拝観となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年12月17日14:28
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(40)


 境内に入ります際、最初に潜りましたのは、山門ではありませんで仁王門≠ナしたネ。仁王門を潜りますと、すぐに五重塔を拝観です。


 ◆妙宣寺五重塔(みょうせんじごじゅうのとう)

 --- https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/4926.html ---

 妙宣寺は、日蓮聖人に帰依した佐渡人最初の檀那・日得上人が、弘安2年(1279)以前に開いた金井新保の道場「阿仏房」を前身とし、天正17年(1589)に現在地へ移った際に妙宣寺の寺号を起こしたといわれている。
 境内の五重塔は、相川の長坂茂三右衛門と金蔵の親子二代を棟梁とし、文政8年(1825)に建立されたものである。建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺(旧こけら葺)、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24メートル、初層の各辺3.6メートルで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。新潟県内に現存する唯一の五重塔である。

 ◆妙宣寺

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0107/ ---

 -- 中世が香る日蓮上人ゆかりの名刹 --
 佐渡配流の日蓮に仕え、熱心な法華経信者となった遠藤為盛(阿佛房日得上人)。1278年、妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのが始まりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城で、今もどことなく城跡の雰囲気を残しています。境内には、県内唯一の五重塔はじめ、「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。


 五重塔§eには、こんな雑太城跡≠フ説明板が…

 ◆雑太城跡

 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である。築城の時期は十六世紀前半頃ころと考えられる。三郭から成り、現在も土塁や空堀の一部がみられる。天正十七(1589)年、越後上杉景勝の佐渡支配により、城は廃され、上杉氏代官直江兼続によって城地は妙宣寺に与えられ、現在に至っている。


 五重塔≠過ぎまして存在しますのが山門≠ナすネ。
 WEB上で妙宣寺≠検索しますと、こんな興味深い記載もありました(^_^)v


 ◆新潟唯一の五重塔がそびえる「佐渡の妙宣寺」

 --- https://gozzo-line.com/sado/9314/ ---

 ・妙宣寺
  関 道雄(せき どうゆう)さんの自己紹介


 佐渡出身、現在82歳です。中学卒業後は東京・堀之内妙法寺で修行を積み、一時は電気技師としても働いていました。後に立正大学で学び、佐渡へ戻ったのは昭和47年(1972年)のことです。佐渡では円静寺(えんじょうじ)の第27世住職を務め、昭和48年から60年までは妙宣寺執事として山門建立などに携わりました。平成18年(2006年)に妙宣寺第47世貫首(かんじゅ)に就任して今に至ります。

 ・PROLOGUE

 佐渡の西側に位置し、真野湾に面した真野地区。真野にはかつて佐渡国の国府が置かれ、佐渡最古の寺院を継承したとされる佐渡国分寺、1221年(承久3年)の承久の乱で敗北し、佐渡で22年を過ごした順徳上皇を祀る真野御陵(まのごりょう)があることでも知られる地域です。
 真野地区は両津港から車で30分ほど。ゆるやかな坂道を上って行くと、前回のごっつぉLIFEでご紹介した「ラ パゴッド」と、そのお向かいには、木々に囲まれた荘厳な五重塔が姿を現します。
 今回ご紹介するのは、この五重塔を有する「妙宣寺(みょうせんじ)」。
 妙宣寺は、日蓮宗の古刹として800年近い歴史を刻んできた、佐渡の歴史を語る上で欠かせない寺院の一つ。今も国内外から多くの参拝者や観光客が訪れています。
 境内には、正中の変で佐渡に流された公卿・日野資朝(ひのすけとも)の墓所があり、本堂には法華経の本尊を祀っています。また、日野資朝自筆の細字法華経や日蓮聖人の書状など、国指定重要文化財の貴重な文化財も所蔵されています。

 妙宣寺の歴史は、日蓮聖人の佐渡配流に遡ります。
 日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、当時の飢饉や疫病といった災いは、正しい仏法に従っていないために起こったものという「立正安国論」を説きました。その出来事が鎌倉幕府の怒りを買い、その後も幕府を批判したとして、日蓮聖人は佐渡へ流罪となりました。
 日蓮聖人は苦境に立ちながらも、佐渡の地で「観心本尊抄」などの重要な著作を著し、法華経を布教。その中で、日蓮聖人が出会ったのが阿佛房日得上人(あぶつぼうにっとくしょうにん)です。
 妙宣寺は、熱心な法華経信者となった阿佛房日得上人が、妻の千日尼(せんにちあま)と共に開いた道場「阿仏坊」が前身であるとされ、天正17年(1589年)に現在の場所に移った際に、妙宣寺の寺号を起こしたと言われています。

 現在地は、かつて佐渡守護代 竹田本間氏の居城「雑太城」があった場所。参道を歩くと、かつての城郭を思わせる石垣の跡が今も残っています。境内で最も目を引くのは、やはり新潟唯一の五重塔!
 高さ約24メートルのこの塔は、文政8年(1825年)に、相川の宮大工・長坂茂三右衛門によって建立されました。
 心柱が杉の一本造りになっているのが特徴で、各層の高欄や浅唐戸は資金難のため未完成のままですが、その荘厳な姿は江戸時代の建築技術の高さを今に伝えています。
 この歴史ある寺院を、平成18年から守り続けているのが、ご住職である関道雄さん。
 「今日はね、普段法要で皆さんにお話しすることを、語らせてもらいましょうか」と穏やかに語る関さんから、人生における哲学、お寺の役割、心の在り方などなど、普段なかなか聞けない貴重なお話を、たっぷりと伺ってきました!

 ・INTERVIEW

 -- 修行僧から電気技師、そして住職に --
 「人生には思いがけない道筋があるものです」と、ゆったりとした口調で語り出す関さん。
 ここに来るまでにどういった道を歩んで来られたのか、まずは関さんのこれまでの人生について語ってくださいました。
 関さんは、真野にある円静寺の13代目住職の子として誕生。
 お寺で生まれた子どもの宿命でもあったそうですが、中学2年生の時、日蓮宗の本山でもある東京の「堀之内妙法寺」への修行を命じられました。「田舎っぺの私は、東京という街をきょろきょろと見回すばかり。別世界に来たような気分でした」と、関さんは当時を振り返ります。

 堀之内妙法寺は、全国から若い修行僧が集まる寺院として知られる名刹。
 ここでの修行は、毎日のようにお経をあげることに加えて、トイレの掃除も修行の一環でした。
 トイレに続いて廊下掃除、庭掃除と、基本的な作業の繰り返し…。
 「やり方が悪いとすぐにやり直し。とにかく丁寧に、しっかりと物事に取り組むことの大切さを教わりました」
 特に廊下の掃除は、風で積もる土やほこりを丹念に拭き取る必要があり、とにかく大変だったそうです。
 つらい修行の日々。若き日の関さんの興味は、やがて別の方向に向いていきました。
 「もともと好きだった化学や電気への興味が抑えきれなくてね(笑)」という関さん、なんと堀之内妙法寺を一旦離れて、町の電気店に飛び込んだそう!
 す、すごい行動力です!!
 そこでテレビ修理の技術を学び、技術者試験の第1回生として資格を取得。
 各家庭を訪問して修理を行う中で、関さんは人生の思いがけない真実に出会うことになります。
 「修理の仕事で、勝手口からお邪魔するでしょう。そうするとね、その家の素顔が見えてくるんです」
 玄関という“表の顔”ではなく、日常の営みが垣間見える勝手口からの訪問は、その家庭の“本質”を映し出しているように、関さんは感じたといいます。
 「立派な門構えの家でも、実は夫婦関係が冷めていたり、逆に、質素な家でも温かな家族の絆が感じられたり。そういう機微が、おのずと勝手口から見える光景と伝わってきたんですね」
 人々の暮らしに触れるうちに、関さんの心の中には、新たな思いが芽生えてきました。
 「お坊さんという立場なら、もっと深く人々の心に寄り添える。
 『こうしたら夫婦仲が良くなりますよ』『ああしたらダメですよ』と、遠慮なく伝えられるのではないか、そう考えるようになりました」

 その思いを胸に、関さんは立正大学で仏教を学び直します。
 そして、学びを終えた昭和47年の春、生まれ育った佐渡の地に戻ってきました。
 「佐渡には都会にはない、本質的な豊かさがある。気候も風土もいい。大気の汚染もない。欲にとらわれず、のんびりと暮らす方が人生は充実するものでしょう」
 電気技師から住職へ。
 一見、回り道に見える人生の軌跡は、人々の心に寄り添う住職としての関さんの深い洞察力を育んだのかもしれません。
 日頃の行いは“表情”に出る!?
 お寺のご住職から聞く話といえば、法話や説法があります。法話とは、僧侶など仏教に携わっている方が、仏教の教えに基づいた話を、一般の人向けに分かりやすく説いて語ること。葬儀のお通夜や法事などで、お坊さんがお経を読んだ後に話してくださるお話というと、分かりやすいでしょうか?
 普段、お寺に足を運ぶことがほとんどない私にとって、関さんが語る言葉の一つひとつが心に沁み入るものがあり、終始「ははぁ…」「なるほど…」とただただ頷くばかり(笑)。
 たくさんのお話を聞いた中で、ハッとさせられたことがありました。
 それは「今の自分の顔は、生まれてから今までの行いの表れ」ということ。鏡に映る自分の表情から、今の幸せも不幸せも読み取れるのだと、関さんは話します。

 「見ず知らずの人でも、『あの人は人相が悪いな』『叩けばほこりが出そうだな』と思う人がいるでしょう。その人相は、生まれつきのものではなく、その人の心がけや行いによって形作られるのです。自分自身が醜くもなり、尊くもなる。それは自分の心がけ次第なんです」
 関さんは、この考えの根底にあるのが、「潜在意識」という概念だと教えてくれました。
 「例えば、鍵をどこに置いたかを忘れてしまった時のことを考えてみてください。
 必死に思い出そうとしても出てこない。でも、ふとした瞬間に『あ、あそこだ!』とひらめくことがありませんか。
 それが潜在意識の働きです。自分では意識していなくても、潜在意識は確かに働いている。その潜在意識が、知らず知らずのうちに、私たちの人相を作っているんです。
 大切なのは、世のため人のために尽くすという心がけ。自分のためだけでなく、世のため人のために生きる。そういう心がけで生きていれば、自然と仏の表情になってくるんです」
 なるほど…長年、積み重ねてきたものって“表情”に出るのですね(いや、もうすでに出ているということですよね!?)
 これまでの自分の行いを振り返りたくなるような、背筋がピンと伸びるお話でした。

 ・EPILOGUE

 -- 人々の心の拠り所であるために --
 関さんが妙宣寺の住職となって19年。その中で関さんは、お寺は地域交流やコミュニケーションの場や、文化の拠点といった役割も併せ持つものであり、法事やお葬式だけがお寺の役割ではないと考えてきました。
 そのため、近年の妙宣寺では、これまでにはなかった能や音楽イベントなども開催。地域や人の声に耳を傾けながら、必要とされる場面で手を差し伸べてきました。
 「やりたいと言ってくだされば、私たちは『はい、どうぞ』と。お寺はいろんな方々にとって、開かれた場所でなければなりませんから。
 お寺って、何をしに行けばいいのかわからないという声をよく耳にします。でも、それでいいんです。何も考えずに、白紙で来るのが一番良いんです」

 そう語る関さんの言葉には、お寺を特別な場所ではなく、誰もが気軽に訪れることのできる心の拠り所にしたいという願いが込められています。
 「心に迷いがあったり、何か考えがまとまらなくて、うつうつとしている時こそ来てほしいものです。宗派なんて関係なく、本来は一つであるべきですから。
 お釈迦様だって、最初から難しいことは説いたりはせず、人々の理解に合わせて、少しずつ教えを説いていったのでしょう。自分の不幸を先祖のせいにしたり、運が悪いと嘆いたりする人がいる。でも、それは違う。繰り返しになりますが、自分自身の普段の心がけや行いが、自分を尊くもし、醜くもするのです」

 関さんの教えは、現代を生きる私たちへの温かな叱咤激励のよう。
 新しい一年の始まりにふさわしい、心の在り方を考えるきっかけをもらえた気がしました。
 妙宣寺を訪れて参拝をしたあとは、ぜひ境内を散策してみてください。
 歴史的建造物の荘厳さや庭園の美しさなど、非日常に浸れる時間と空間を体感できるはずです。


 …と、こんな記載でありました(^-^)//"

 

 

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