妙性山 玉泉寺
2025/10/20(月)-2025/10/22(水) 佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行 <3/24>

 

 

 

 ■2025年11月11日20:32
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(05)


 佐渡島へのジェットフォイル出航時間13:35≠ワでの約1時間、3階の新潟港ターミナル≠ナ時間を潰しますのも結構、苦痛ではあります。
 「瑞鳥(ずいちょう)」「佐渡彩景(さどさいけい)」の作品の他には特に見るべきモノも無さそうですから、仲々時間が過ぎ去りません。15分おきくらいに時間を確認しておりまして、13:20頃でしたか…皆さんに動きが(^-^)
 ジェットフォイル改札口方向へ向かわれますから、後方に付いてGONsanも。
 ふん、ふん、改札口手前にも待合室がありましたか…ただ、狭いですから、空席はありませんでしたネ(^-^)
 出航10分前頃から改札スタート。ジェットフォイル乗り場へ向かっていますと、眼の前にジェットフォイルが(^_^)v
 GONsanは、ジェットフォイルへの乗船は初めてですから、WEB上で検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆


 ◆ボーイング929

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ボーイング929ジェットフォイル(Boeing 929 Jetfoil)は、ボーイング社が設計製造した旅客用の水中翼船の名称である。
 当初は軍事用船舶として開発された。1974年に旅客用が開発され、1977年に日本でこの旅客用が初導入された。日本国内ではジェットフォイル((Jetfoil)という愛称を持つ。
 「ジェット」は本船がジェットエンジンとウォータージェット推進機によって駆動されることからきており、「フォイル」とは、「鋭い薄い翼」を表わす英語に由来する。
 ボーイング社の設計製造であるが、現在はライセンスを引き継いだ川崎重工業の登録商標となっており、現在は「川崎ジェットフォイル929-117型」として、製造・販売を行なっている。

 ・構造

 水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にある。ガスタービンを動力としたウォータージェット推進である。
 停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれる。速度が上がると水中翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し「離水」、最終的には水中翼だけで航行する「翼走」という状態になる。
 船体の安定は、自動姿勢制御装置(ACS、Automatic Control System)により制御された水中翼の動翼により行われる。進行方向を変える場合も動翼を使うため、航空機さながらに船体を内側に傾けながら旋回する。翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地がよい。
 水中翼は前後ともに跳ね上げ式になっており、停泊・低速航海時の吃水を抑えることができる。また、半没翼型と異なり、船体左右への翼の張り出しもないため、最低限の防舷材等を除いて、特別な港湾設備なしに港に着岸することができる。また水中翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の海上障害物、浮遊物への衝突に耐えることができる。
 翼走航海中の船体姿勢制御はACSと油圧アクチュエータに依存するので、推進用のガスタービンと併せて、航空機なみのメンテナンスが必要である。
 燃油は軽油を使用する。

 ・歴史

 航空機メーカーであるボーイングがその技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、当初は軍事目的であった。1967年にパトロール用の小型艇トゥーカムカリが実用化された。これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇(後のペガサス級ミサイル艇)が開発された。
 1974年に、その軍事用船舶を基にして旅客用が開発された。ボーイング社は、航空機には700番台の番号を、船舶には900番台を使用していたため、型番は929-100型となり、ジェットフォイルの名前もこのとき付けられた。ボーイングとしては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻を製造した。1977年に、日本に初導入された佐渡汽船のジェットフォイル「おけさ」も、このボーイング製(100型)だった。
 その後、ライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航した。現在は川崎重工業(神戸工場)に全面的に移管されており同社で製造されている。川崎重工業では1989年から1995年までに15隻が製造された。ボーイング、川崎重工業の両社で旅客型として製造されたジェットフォイル(軍用-320型からの改造1隻含む)は29隻にのぼる。
 1995年以降、新規造船はなかったが2020年に25年ぶりに新造船が竣工した。東海汽船の「セブンアイランド結」である。(川崎重工業製16番船)
 また同じくボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が建造して1983年に就役したイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇は海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造している。(2010年までに退役)
 日本でのジェットフォイル初就航は1977年5月で、カーフェリーのみだった佐渡汽船の新潟港 - 佐渡両津港間の定期航路に「おけさ」(100型)の名称で投入された。自社で整備・メンテナンスを行うため、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだ。現在も、佐渡汽船は国内運航会社で唯一ジェットフォイル専用ドックを保有し、定期メンテナンスから事故修繕まで全ての整備を自社で行っている。
 その後、川崎重工業がジェットフォイルのライセンスをボーイングから得た際には、佐渡汽船からもメンテナンス・ノウハウの提供を受けている。また、新潟-佐渡航路の運航開始当初、新潟港が信濃川の河口部にあるため、水と共にごみなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発したことから、ボーイングは急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリル(通称『ニイガタグリル』)を設置する対策を講じた。これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映された。


 …と、こんな歴史を持ちますジェットフォイル≠ナありました(^-^)/
 ジェットフォイル≠フ最高時速は80kmのようですけど、この日の最高速度は、あいにく3mの荒波もありまして76km℃~まりでしたネ。
 「翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地が良い」との事ですけど、この日は波が高く、出航して30分ばかり経ました頃でしたか…船酔いでゲボが出そうになりまして、急いでトイレに駆け込みです。
 暫しトイレを覗き込み、ゲボ出し態勢を取りましたけど、これが、出そうで仲々出なくて実に苦しい(^-^;
 15分ばかりゲボ出し態勢にありましたけど、やっぱり出ませんで、とりあえずトイレからは退室です。トイレから出ますと、トイレ待ちの方が何名かおられ、非常にバツの悪いGONsanなのでありました。
 自席に戻りましてからも、ゲボは出そうで出ない状態が続きます。自席でビニール袋で顔を覆い、苦しい状態を継続でした。
 結局、佐渡島の両津港に到着しましても、船酔い状態で気分がすぐれませんGONsanなのでありました。後で知りましたけど、この日の乗客の半数近い方々が、GONsan同様に船酔い状態でありましたようです(^-^;
 乗船時間は、1時間程度でしたけど、この内の半分は苦しい時間を強いられてしまいましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年11月12日16:08
 10/20(月)-10/22(水)佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」℃Q詣旅行(06)


 初めて乗船しましたジェットフォイル≠フ乗り心地、あいにくの3メートルの高波で大変でしたけど、とにかく、一応、無事に、佐渡島に上陸です。
 両津港佐渡汽船ターミナルから貸切バスに乗り込みますと、ガイドsanの明るい、なめらかなお話しで、船酔い状態も多少緩和されて行きましたような(^_^)v
 今から向かいます佐渡島最初の訪問地は、両津港佐渡汽船ターミナルから北西方向に存在し、距離にしまして2.6km程度の「佐渡日蓮聖人大銅像」であります。


 ◆佐渡日蓮聖人大銅像(さどにちれんしょうにんだいどうぞう)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0061/ ---

 世界一大きい日蓮像
 「日蓮宗開宗750年慶讃事業」として、全国3,000人を超える僧侶・信徒の協力で建てられた銅像です。両津湾を背に、釈迦の生まれたインドの方角に向かって建つ姿は、高さ約13m、台座を含むと26m。ゆかりの地・佐渡にふさわしい威厳に満ちた姿でそびえ立ちます。

 ◆日蓮宗立教開宗七五〇年慶讃事業 -- 「佐渡ヶ島 日蓮聖人大銅像建立」にあたって --

 --- https://www.ne.jp/asahi/nichiren/nishiminobu/sado.html ---

 この事業は、全国の日蓮宗宗徒の思いを集結し、霊跡佐渡の地に日蓮聖人の大銅像を、立教開宗記念として建立することを決意致したことから始まりました。
 去る平成十年十月二十七日、二十八日、全国日蓮宗青年会委員長として「佐渡伝道」の名の下に佐渡島内にて会員と共に唱題行脚を展開しました。その後、なんと新潟県佐渡郡の本宗信徒より土地寄進の申し出があったのです。
 土地の広さは約二八〇平方メートルで、両津港に面する山の中腹(新潟県両津市加茂歌代字百成)に所在。現在の道路(大形バス通行可)から土地までは三〇メートル前後で両津港からは車で約十分の所にあります。
 寄進者としては「法華経の布教そして日蓮聖人のためにこの土地を活用して頂きたい」ということでした。
 日蓮聖人は文永八年(一二七一)九月十二日の龍口法難によって佐渡の地に配流となられました。そして二年余りに及ぶ佐渡での過酷な生活の中で、今日の日蓮宗の御本尊となっている大曼荼羅の始顕をはじめ開目抄や本尊抄といった多くの著述をなされました。即ち、佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっているのです。是非ともこの地に日蓮聖人を象徴するものを建立したいという思いが日に日に強くなって参りまして、この佐渡銅像建立委員会を平成十二年七月十二日に立ち上げた次第です。
 その後、周辺地を寄付される方も現れ、隣地の地権者も賛同され、また全国の日蓮宗寺院のご住職や僧籍を持つ方々の暖かいご支援を賜り(信徒含め約二千名)ここに世界一大きな日蓮聖人銅像がお姿を顕現しました。
 さて、いよいよ落慶の日が近づいて参りました。多くのご参拝をお待ち申し上げ、さらなる建立の趣旨へのご理解をお願い致します。

 
-- 参考:日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が2003年5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれました。--

 …と、WEB上で「佐渡日蓮聖人大銅像」を検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆日蓮

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 ・概要

 文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。
 『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも) いだきぬべし』(開目抄)『日蓮が慈悲広大ならば(中略)万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。その直前に幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」とその際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエビソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)
 文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。
 だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。
 文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。(以下 略)


 …と、こんな日蓮聖人であります。
 バスで近くまでヤッて来ますと、大きな銅像ですから、スグに眼に入りましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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