2025/05/30(金)-06/02(月) 「七面山敬慎院・奥の院=v参詣 <2/12>

 

 ■2025年07月09日11:01
 5/30〜6/2間で、ノンビリと「七面山敬慎院・奥の院=vに参詣でした(04)


 お万の方の墓所は、本遠寺本堂の左側(西側)に位置し、宝篋印塔は壮麗で雄大でありました。


 ◆【県指定文化財】徳川家康側室養珠院墓所

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2017-0901-syougai-youzyuinbosyo.html ---

 指定日:平成20年5月8日
 所在地:大野839
 所有者:本遠寺

 -- 概説 --
 本遠寺(ほんのんじ)には、徳川家康側室養珠院の墓所がある。養珠院は、お万の方と呼ばれ、徳川御三家のうち、紀伊家の藩祖頼宣、水戸家の藩祖頼房の生母であり、水戸黄門こと徳川光圀の祖母にあたる。お万の方は、熱心な日蓮宗の信者として知られ、本遠寺を創建した心性院日遠上人(にちおんしょうにん、身延山久遠寺二十二世)に帰依し、同宗の隆盛に寄与した。そのため、寛永17年(1640)にはそれまで女人禁制であった身延の七面山に初めて参詣を果たし、女性の登山を解禁させるきっかけを作った。
 本遠寺は日蓮宗由緒寺院(本山)の一つで、日遠上人が、慶長法難による刑を免れたのち、慶長14年(1609)に退隠して大野の地に草庵を結んだことに始まる。正保3年(1646)には江戸幕府第3代将軍徳川家光から260石余の寺領を与えられ、慶安3年(1650)からは紀州藩主徳川頼宣によって堂宇の造営、改修が行われ、承応4年(1655)には落成をみた。
 お万の方は、徳川家康の死後、落髪して養珠院と称し、久遠寺(身延町)や池上本門寺(東京都)の保護に尽くしたが、承応2年(1653)8月21日に、江戸の紀州藩邸で死去した。紀州藩主頼宣は、養珠院の遺言により、本遠寺に壮麗で雄大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立し、菩提を弔った。
 宝篋印塔は関西形式で、正面の石門と周囲の玉垣の細工は県内では類例がなく、紀州藩が派遣した石工の手によるものと推定されている。材料の御影石は、欠損部位もなく、近世初期の大名墓と墓制を知る上で貴重な資料といえる。また、当時、最上級の技術や部材により造りだされたもので、徳川家の盛時を偲ばせる。
 墓所には宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)、玉垣(花崗岩)、石門(平唐門・花崗岩)、石燈籠(いしどうろう)、手水盥(ちょうずたらい)、墓所周辺に紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣がある。


 …と、こんな徳川家康側室養珠院墓所≠ナ、永い歴史を感じます立派なお墓でありました。
 この養珠院墓所≠フスグ西側には紀州徳川家供養塔≠ェ存在し、その西側には日遠上人御廟≠熨カ在しますのですけど、これまた画像に納めますのを失念と言うか参詣しませんでした。
 後日また、いつの日か、本遠寺を訪れます機会がありましたらお参りしたいと思います(^-^)//"


 ◆日遠上人

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日遠(にちおん、元亀3年(1572年)-寛永19年3月5日(1642年4月4日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧。字は尭順。号は心性院、一道。姓は石井。京都の出身。

 -- 略歴 --
 受布施の立場をとる本満寺の日重に師事した。徳川家康の側室・養珠院(お万の方)の帰依を受ける。
 1600年(慶長5年)飯高檀林の講主となる。1608年(慶長13年)江戸城で行われた浄土宗と日蓮宗との宗論(慶長宗論)で日蓮宗は敗者となった。その後、徳川家康は「念仏無間」は経典にない空論として、日蓮宗の本山寺院に対して誓状の提出を迫った。日遠は日蓮の教えである「四箇格言」を捨てる訳にはいかず、誓状の提出を拒んだ。徳川家康は命令に逆らう謀反者として安倍川河原で磔刑に処そうとした。日遠に帰依していた養珠院は、徳川家康に嘆願し刑の執行は許された。慶長14年(1609年)には現在の身延町大野に本遠寺を創建した。本遠寺は後に養珠院を生母とする徳川頼宣・徳川頼房により整備され、養珠院の墓所が所在している。
 1630年(寛永7年)江戸城で行われた受布施派と不受不施派との対論(身池対論)で不受不施派を破り、池上本門寺に入山した。1631年(寛永8年)鎌倉の不二庵に隠棲したが、養珠院をはじめ多くの信者が訪れたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年07月10日13:31
 5/30〜6/2間で、ノンビリと「七面山敬慎院・奥の院=vに参詣でした(05)


 本遠寺でのお参りを終えますと、次に向かいますのが日蓮宗宝聚山 鏡圓坊≠ナあります。
 今まで総本山久遠寺≠ノ向かいます時には、時たま、国道52号線(身延バイパス)を走行し久遠寺総門へと向かっておりまして、その際に鏡圓坊℃R門前を横目に通過しながら、「機会があれば、いつの日か訪れてみよう」とのこんな想いがありました。それだけに、今回ヤッと訪れます機会到来で少々嬉しさも(^-^)/
 鏡圓坊℃R門前に到着しましたけど、はてさて駐車場は?
 山門前に到着し周辺をキョロキョロしておりますと、山門右側に車2台分が駐車可能なスペースが(^_^)v
 駐車場ではないのでしょうけど、短時間の駐車ですから、まぁイィか≠ニ駐めます事に。
 山門脇(左側)には身延町指定史跡「南部氏館址」≠フ説明板が…


 ◆【町指定史跡】南部氏館址

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2023-1205-1116-32.html ---

 指定日:昭和44年9月12日
 所在地:梅平
 所有者:鏡円坊
 時 代:鎌倉〜室町
 備 考:『町史跡 南部氏館跡』

 -- 概説 --
 南部六郎実長は、南部牧の北半分波木井飯野の領主として居館を波木井郷梅平に築いた。館址は梅平の集落より一段高い山裾に位置し、標高約258mで40m四方の比較的広い平坦地となっている。鏡円坊は実長の次男の屋敷をそのまま寺院に改めたものと伝えられている。昭和58年(1983)には「おかまど跡」と呼ばれるところで発掘調査が実施され、堀立柱建物跡や12世紀末頃の土器が出土した。尾根上の狭いテラスに屋敷があったとも考えにくく、発掘調査の成果からも屋敷跡を実証するには至っていない。また、実長公以下八世の南部氏は概ね200年間この館址を本拠としたとも北方の波木井集落背後の山を屋敷跡としたという伝承がある。

 ◆南部氏館跡(身延町)

 --- https://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/nanbuumedairakai.htm ---

 所在:山梨県南巨摩郡身延町梅平
 交通:JR身延線身延駅よりバス鏡円坊下車
 歴史:南部氏は甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子光行がこの地の所領を得て南部を名乗ったことに始まる。
 文治五年(1189)、光行父子は源頼朝に従い奥州藤原氏征伐に参加、戦功を立て奥州に所領を与えられが、これを機に光行は奥州に下向、甲斐南部氏は子実長が継ぐことになる。
 実長はこの梅平に館を構え、治政に当たったという。その後実長は日蓮聖人に深く帰依、文永十一年(1274)所領を寄進して日蓮を招き外護に努めた。
 一言:南部氏館跡は身延山久遠寺の南の台地上にあったとされ、現在は鏡円坊となっている。鏡円坊は実長の次男がそれまでの館から寺に改めたとされる。
 ただ残念ながら遺構は確認出来ず、鏡円坊の前の説明板、更に下った所に立っている石碑がその地が館跡ということを示すばかりである。


 …との事で、南部氏館跡が鏡円坊≠ニなっていますようであります。
 とにかく、念願叶い鏡円坊≠ノお参りです。ここでもまた本堂でのお参りを終えますと、行衣に御朱印をお願いです。お上人、大変丁寧でご親切な方で、行衣を雑にたたんでおりましたのに、キレイにたたみ直して戻して下さいました。
 嫁さんとGONsanは、ただただ恐縮するばかり。
 お茶を戴きながら鏡円坊≠フ歴史も少しお話し頂きました。
 以前から訪れようと思っておりましただけに、参詣が叶い、その上、お上人のご丁寧・ご親切なご対応で、いゃいゃ大感激のGONsanなのでありました(^-^)//"


 ◆鏡円坊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 鏡円坊(きょうえんぼう)は、山梨県南巨摩郡身延町梅平にある日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の山内支院の一つ。通師法縁。天然記念物鏡円坊のサクラで知られる。宗門史跡。
 歴史 -- 波木井実長の邸に日台(波木井長氏の子で幼名は春乙丸)が創建した。

 ◆鏡円坊(きょうえんぼう)

 --- http://minobu.info/kyuuminobuchou/kyouenbou.html ---

 鏡円坊は身延山内支院の一つで、本院第五世日台上人が開かれたもの。
 日台上人は波木井長氏公の第二子で幼名を春乙丸と名付けられていました。そして晩年、波木井実長公の御舘邸を改めて寺として鏡円坊と名付け、実長公を初祖とし、御自身は第二代目であると称されました。
 すなわち日蓮大聖人に身延山全山を寄進された実長公が、御生活になり大聖人がおたづねした邸が鏡円坊となったのです。

 ◆宝聚山 鏡圓坊

 --- https://kyouenbou.com/ ---

 日蓮聖人が晩年身延山に入山されるに当たり、身延山全山を御寄進された甲斐源氏の一派南部実長公の館をお寺としたのが鏡円坊です。
 日蓮聖人身延山在中の折は厚く支援され最後、東京池上に於いて亡くなる時は自分のお骨は墓は必ず身延山に建立する様にと遺言される程日蓮聖人に尽くされた大檀家です。歴史的にも重要な拠点として日蓮宗より宗門史跡に指定されております。

 ◆鏡圓坊 縁起

 --- https://kyouenbou.com/aboutus/ ---

 鏡円坊(きょうえんぼう)は、山梨県南巨摩郡身延町梅平にある日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の山内支院の一つ。通師法縁。天然記念物鏡円坊のサクラで知られる。宗門史跡。波木井実長の邸に日台(波木井長氏の子で幼名は春乙丸)が創建した。
 日蓮聖人が晩年身延山に入山されるに当たり、身延山全山を御寄進された甲斐源氏の一派南部実長公の館をお寺としたのが鏡円坊です。
 日蓮聖人身延山在中の折は厚く支援され最後、東京池上に於いて亡くなる時は自分のお骨は墓は必ず身延山に建立する様にと遺言される程日蓮聖人に尽くされた大檀家です。歴史的にも重要な拠点として日蓮宗より宗門史跡に指定されております。

 寺宝としては身延山で一番最古の日蓮聖人像
 南北朝期にまで遡るもので身延町文化財に指定されております。本堂の裏の桜の木は樹齢500年以上といわれる枝垂れ桜、一説には身延山久遠寺内の枝垂れ桜の親木になったとも言われております。
 又、日蓮聖人南部公館(現鏡円坊)に下向の時、たまたま京都より来ていた有名な画伯に日蓮聖人自画像を描かせようとした時、余りの威光に直視出来ず水面に写った姿を描写したと言う水鏡の祖師のいわれとなった井戸など他にも江戸時代にまで下がりますが各種寺宝があります。

 ◇国道52号線バイパス沿い、日蓮宗・鏡円坊に初参拝
 -- 鏡円坊の口コミ --
 口コミを投稿:2023年8月22日
 富士川右岸で、身延町の町を迂回するようにバイパスができてかなりたつが、当該寺は、車でバイパスを走行中、いつも通り過ごしてしまい気になっていました。今回、初めて参拝する。日蓮宗の直系の坊ということで縁起はわかりません。久遠寺の境内にも、日蓮宗の寺が沢山あり、この寺は、久遠寺の境内から離れているので、少し意外に思われた。車を置くのに駐車場はなく、短時間の参拝でした。(スマホで写真を撮ったが、パソコンに移動が、不具合で、次回写真を撮りたいです)。桜の季節がイイみたいですので、再度、訪問したい。
 訪問時期:2023年7月
 - WEB上には、こんな口コミもありましたけど、ふん、ふん、皆さん、鏡円坊の山門前を通りますと、似たような想いが生じますようですネ(^.-)☆ -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2025年07月11日22:53
 5/30〜6/2間で、ノンビリと「七面山敬慎院・奥の院=vに参詣でした(06)


 鏡圓坊でのお参りを終え、時刻を確認しますと、13:17。
 今夜の宿へのチェックインまで、未だ3時間ばかりありますので、遅ればせながら日蓮宗総本山久遠寺≠サして、奥の院思親閣≠ノ参詣です。鏡圓坊からですと15分程度で到着と思います。
 写真は撮れませんでしたけど久遠寺総門≠潜り久遠寺三門♂。の駐車場にと到着です。
 WEB上で、久遠寺三門∞国指定天然記念物 身延町ブッポウソウ繁殖地≠検索しましたら、こんな記載がありました(^-^)//"


 ◆健脚の守り神!日荷上人の謎が残る壮大な身延山三門は見所満載

 --- https://shukuken.com/minobu-sanmon ---

 皆さまこんにちは。身延在住のゆる身延です。本日は身延山のシンボル的存在でもある三門についてご紹介します。
 身延山の三門は「日本三大三門」(諸説あり。他二カ所は京都の南禅寺、知恩院)と呼ばれるように、大変大きく立派な門で、間口は13間(約23.5M)奥行きは5間(約9M)、高さは7丈(約21M)にも及び、2018年に国の有形登録文化財に指定されました。
 その壮大な造りに多くの参拝の方は足を止められ、門の両脇には仁王様が睨みをきかせ、門の楼上ではお釈迦様と十六羅漢様が見守ります。
 なぜ「山門」ではなく「三門」なのか。「三門」とは「三解脱門」の意味で、仏教の教義の悟りの内容である「空・無相・無願」を表わしています。簡略に表現すると、「空」は、全ての存在、現象は実体を持たないことから「ものごとにこだわらないこと」、「無相」は、「空」であるゆえに差別がない、つまり「見かけで差別しないこと」、「無願」は、「無相」であるゆえにそれらは求め願うような欲望の対象ではない、つまり「欲望のまま求めない」ことです。世の中の様々な執着を取り払って本堂に至る門として三門が存在しているのです。
 三門をくぐる事で俗世の様々な執着を取り払い、楼上で見守るお釈迦様、十六羅漢様に菩提へと続く道に誘っていただき、三門の先にある菩提梯(有名な急階段)で菩提へと近づき、久遠寺境内という浄土に到達する、という構造が成り立っています。
 菩提梯はあまりにも急な階段なので、それを避けて車で西谷か東谷から久遠寺へ上がられる方が多いですが、仏教的な意味を考えた時には、是非、三門を潜り、菩提梯を上ってみていただければと思います。

 -- 三門に納められているわらじの謎 --
 ところで、三門をお参りするとたくさんのわらじが納められていることに気づかれる方も多いと思いますが、これは三門にまつわる伝説によるものです。
 身延山の三門には、かつて仁王像がない時期があったとも言われており、これを嘆いた中山法華経寺の日祐上人の弟子、六浦平次郎の夢枕に、真言宗の名刹である称名寺(横浜市金沢区)の仁王像が表れ「私は身延山で人々の守り神になりたい。おまえの力で私を身延山まで運んでおくれ」と、告げたといいます。
 平次郎は早速称名寺を訪ね、仁王像の話をしましたが、受け入れられるはずもありません。そこで、囲碁が大好きだった称名寺の住職に仁王像をかけての囲碁の勝負を挑み、気迫の勝利をおさめて仁王像を勝ち取りました。
 平次郎は縄をもってこの7尺2寸(2M超)もある仁王像二体を一度に背負い、三日三晩(一晩とも)かけて身延山に運んだという伝説が残っています。その為、三門の仁王様は健脚の守り神とされ、たくさんのわらじが奉納されるようになり、現在は三門で健脚のお守りも頒布されています。
 ちなみに、この平次郎は当時の法主猊下により日荷という名を与えられ、谷中の延壽寺でも健脚の神様として祀られている他、横浜の上行寺には日荷上人が身延山に仁王像を納めた帰りに持ち帰ったというカヤの木が今も茂っているということです。
 日荷上人は本当に一人で仁王像を担いで来られたのか。どの時代の出来事なのか、三門は幾度かの火災に見舞われているものの、この大きな仁王像が火災の度に難を逃れ続けることが出来たのはなぜなのか等、謎は今も解けないままだそうです。

 -- 三門のご開帳日 --
 さて、身延山の三門は基本的には8月の7日、旧暦の七夕の日の御開帳となりますが、それ以外ではお寺さんのご紹介や、ある程度まとまった人数での事前申し込みにより御開帳していただけるそうです。また、行事がある際には御開帳されていることもありますので、楼上の扉が開かれているのを見かけた場合はお声をかけてみられてもよろしいかと思います(三門は三門斜め向かいの恵善坊さんの管理です。電話番号0556(62)0078)。
 楼上の御像などは撮影禁止なので、写真をお見せすることが出来ないのが残念ですが、立派な釈尊像の他、ずらりと並ぶ十六羅漢像は圧巻です。是非タイミングを合わせて、お参りいただきたいと思います。俗説ですが、十六羅漢像のうち、一人は自分に似ている顔があるとか。
 また、この三門楼上に至るとっても狭い階段を上る体験をするのも良い経験です。頭をぶつけそうになりながら、身を斜めにかがめて這い上がるように歴史ある建造物に上っていくのはワクワクします。登り切った後の三門の上からの景色は最高です。この眺めを見ながら、お釈迦様と十六羅漢様の前で、執着を捨て、無の心で時間を過ごしてみるのも良いでしょう。

 ◆【国指定天然記念物】身延町ブッポウソウ繁殖地

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2017-0707-syougai-buppousou.html

 指定日:昭和12年12月21日
 所在地:身延西谷、東谷、上之山、町方、南谷、久遠寺境内
 管理者:身延町
 備 考:『山梨の文化財 国指定編』

 -- 概説 --
 ブッポウソウは東南アジア方面に生息し、わが国へは夏鳥として5月頃から渡ってくる。仏法僧目、仏法僧科、仏法僧属の一科―属の独特の烏である。体は美しい青緑色で、頭から首にかけては藍黒色、背中は濃い青緑色、翼の中央には青白色の紋があり、くちばしと足は赤く、遠くからでも見分けることができる鳥である。鳴き声はギャーギャーと不気味な声である。ブッポウソウ渡来生息地として、宮城県狭野神社・岐阜県州原神社・長野県御岳村若宮八幡社の三ヵ所とともに国から指定された全国的に著名な渡来繁殖地である。繁殖が終わると9月末頃から10月上旬頃に南方へ帰っていく。

 ◆身延山久遠寺 - 三門

 --- 山梨県 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01290.html ---

 三門は久遠寺の正門とされています。1642年に最初に建てられたもので、長年の火災被害により3度の再建を経ています。1907年には大規模な改修が完了しています。
 高さ21メートル、幅23メートルの巨大な門。日本の関東三大門の一つに数えられています。
 3つの開口部を持つ寺院の門(三門)は、「3つの解放」の門とも呼ばれています。三門の三つの開口部は、それぞれ「空」(くうもん)、「無」(むごもん)、「無願門」(むがんもん)の三つの解脱の一つを表しています。三門をくぐると、「欲」「怒り」「愚」の三つの煩悩から解放されると言われています。

 

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