2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <11/11> |
桑原一族の石塔脇には、説明書きが…これには、こんな記載がありました。
◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑銘
桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。
そもそも桑原家は代々、備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃、備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕へ、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び、同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。村上正名撰文
-- 昭和34年8月 桑原家同族会一同 --
WEB上で、「桑原伊賀守重信一族墓域修復碑銘」を検索しますと、こんな記載も…
◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑姪
--- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10826188574.html ---
南北朝戦火に?まれた悲劇の武将【桑原重信】
『大可島城跡案内板』より
桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。そもそも桑原家は代々、備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃、備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。
大可島城の築城時期は未だ判明しないが、鎌倉末期から南北朝期に築かれた水軍城であった。と云われている。
南北朝時代、この城は北朝の拠るところであったが、康永元(1342)年五月、南朝方の伊予の軍船が鞆を攻め、南朝方の大将・金谷経氏はこの城を占拠。
北朝方も中国地方の兵を鞆に集め、小松寺に布陣。大激戦が行われた。
この間に南朝方の本拠地である伊予が、北朝の攻撃を受け苦戦中であるとの情報が入り、南朝方の武士は伊予に向って脱出。
鞆近郷(沼隈町の石浦城主)の武士だった桑原重信は、金谷経氏に乞いて、大可島城に残り篭城。一族だけで北朝方の三千騎を受けとめ奮戦したが、最後は自刃して果てたという。
…と、こんな歴史がありますようですネ。
円福寺を後にしますと、次は、「福禅寺対潮楼」に向かいます。
◆福禅寺対潮楼
-- 史跡:朝鮮通信使遺跡・鞆福禅寺境内 平成8年10月11日指定 --
海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。
本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1960年代)に客殿として建立されました。その客殿からの海島の眺めはすばらしく、特に1711年(正徳元年)朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦はその書を残しました。また1748年(延享5年)には正使洪啓禧は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海がその書を残しています。ここが文化交流の場になっていました。福禅寺へ伝来する「対潮楼」などの書6点は、朝鮮通信使に関する記録としてユネスコ「世界の記憶」へ登録されています。
そのほか、WEB上には、こんな記載がありました。
◆福禅寺対潮楼
--- https://tomonoura.life/spot/12654/ 鞆物語 ---
渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。
平安時代の天歴年間(947〜957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。
・「日東第一形勝」―その賛辞に相応しい絶景
この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景
・海上安全と安産信仰を集めたご本尊 千手観音
村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美
◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/sights-spots/94875.html ---
「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。
対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。この景色は、アニメ「サザエさん」のオープニングや、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち」のCDジャケットにも使われています。
多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。
本堂・対潮楼には上がらず、境内のみ拝見し退散のGONsanなのでありました(^-^)//"
それでは、駐車場へと戻って行く事に致します。
帰路は、極力、駐車場への最短距離となりますよう、路地を斜め、斜めと歩行です(^.-)☆
毎回そぅなんですけど、途中、祠の前に置かれましたウサギsanをパチリです。が、前回眼にしました時には、ウサギsanは右側の祠の前の石の上に存在しましたような…
ふ〜ん、この祠のお世話をされます方が、時々、配置換えをされますのかも(^-^)
ところで、今回は、『鞆の浦 de ART 2022』の鑑賞で鞆を訪れましたのですけど、う〜ん、いつの間にか、お寺巡りとなってしまいましたねぇ〜何度訪れましても、お寺巡りも楽しいものであります(^.-)☆
駐車場にと戻って来まして、料金の精算をしますと、所要時間は丁度3時間。正確には「3時間1分」でありましたが、図ったように3時間のお寺巡りでありました(^_^)v
それでは、鞆の町とお別れです(^-^)//"
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