2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <5/11>

 

 

 

 

 

 

 ◆法宣寺の天蓋マツ

 --- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---

 境内一面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600uです。
 大覚山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。


 …との事ですけど、残念ながら現物は無く、1991年に枯死しましたようであります(^-^;
 それでは、次は、南禅坊です。


 ◆南禅坊

 南禅坊は、1600年頃に建てられました。
 福(禅)寺の(南)の僧(坊)の住むところという意味から、南禅坊という名前になったようです。
 「春の海」で有名な作曲家宮城道雄の先祖のお墓もあります。
 本堂と山門は、国の登録文化財になっています。鬼瓦にはいろいろな猿が彫られています。


 ◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64123.html ---

 登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録

 南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573〜1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
 本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。
 山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。


 ◆広島県の文化財−南禅坊山門

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-3000113383.html ---

 一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。
 ※ 現在梵鐘は無い。
 福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
 懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
 木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
 軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。


 境内の大鬼瓦の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆南禅坊 安政の大鬼瓦

 平成五年、南禅坊門信徒の篤信なる願いを受けて第十八世住職釋教壽法師が願主となり、本尊阿弥陀如来様の傘として永年の風雨から門信徒の聴聞の道場を護り続けた大屋根の全面修復工事を「平成の本堂、庫裡屋根大修復が」成就いたしました。
 その節、百三十年余りの間、鞆の町の風景であった南禅坊の大鬼瓦もその役目を終えて新しい瓦と交換されました。縦2m40cm、横3m20cmの鬼瓦は近隣伽藍の中でもまれにみる大きさを誇り、鞆の浦歴史民俗資料館に歴史的建造物の資料として保管されていました。今般その鬼瓦の返却に当たり碑を建てて後世に永くその姿を残すものといたします。
 尚、瓦の裏面には、「菊間瓦師 ヘ佐 安政七申四月(1860年) 細工人 岩見 忠○○」と記されています。

 -- 令和二年八月 第十九世住職 釋 龍壽 --

 

 

 

 

 

 

 

 

 南禅坊とお別れしまして、次に向かいましたのが「阿弥陀寺」です。
 山門入口脇には、こんな説明板が…


 ◆阿彌陀寺

 阿弥陀寺は、1565年に建てられました。
 本尊の阿弥陀さまは、「鞆の大仏」と呼ばれる高さ約2.6mの坐像で、台座を含め4メートルもあるとても珍しい仏様です。この仏様は、大慈悲円満で私たちすべての人々の幸せを願って常に見守ってくださっていると言われています。境内には、見事な石像の地蔵様もあります。


 WEB上にも、こんな「阿彌陀寺」の記載が…

 ◆阿彌陀寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12658/ ---

 1565(永禄8)年に創建された阿彌陀寺は、鞆の人たちからは「あみだいじ」と呼ばれ親しまれています。
 江戸時代の前〜中期、10代目・雲洞上人の頃に中興を見ました。山門はとても立派で、鞆の浦の中でも随一。
 その山門の右の方に、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を合わせた鞆独特のお墓です。お大名でなければお墓が建てられなかった時代に、庶民がこれだけの供養塔を造るんですから、鞆商人の財力のすごさが窺い知れるというものですね。

 ・鞆の大仏、きらきらひかる
 本堂には、「鞆の大仏」と称される「丈六阿彌陀如来坐像」が鎮座しています。光背までの高さは、なんと約5メートル。
 中興第10世の雲洞上人が現(うつつ)に阿彌陀如来のお姿を拝み、その尊容を京都の仏師・安清に伝え、5年かけて完成させたものです。きらきらひかる、その威容、息を呑みます。
 ◇一流の名工の作、そこに漂う心地よい緊張

 ・鞆にもふたつだけ―江戸時代の梵鐘
 境内には釣鐘もあります。この梵鐘は、1652(慶安5)年に「有磯町奈良屋」によって寄進されたものです。
 江戸時代から残っている梵鐘は、鞆でもとても珍しく、ここ阿彌陀寺のほかには、明圓寺に残るばかり。緑青の深い風合いが、歴史の深さを雄弁に物語っています。
 ◇美しい釣鐘、どんな深い声を出してくれるのかな


 ◆阿彌陀寺(あみだいじ)

 --- https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=111 ---

 永禄年間(1558〜1570)の創建。本堂には「鞆の大仏」と称される阿弥陀如来坐像が鎮座しています。江戸時代から残る梵鐘もあります。山門の右の方には、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは鞆独特のお墓で、大名でないとお墓が建てられなかった時代の庶民のお墓です。

 ◆阿弥陀寺

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189588676.html ---

 宗派/浄土宗・智恩院末
 山号/心光山
 院号/法泉院
 開基/天誉上人
 本尊/阿弥陀如来
 住所/広島県福山市鞆町後地1344

 天誉上人開山の名刹、必見!「鞆の大仏」
 深津郡引野村に在ったが、天誉上人という高僧が永禄八(1565)年に鞆・古城山の西脇に移し、開山と称えたが、次代が慶長十二(1607)年に現在地に再転されたと記録されている。
 慶安五(1652)年、有磯町妓楼・奈良屋が梵鐘を寄進した。
 述宝年間(1673〜1680年)に関町の豪商・大阪屋平左衛門が観音堂建立、同年、地蔵堂を道越町・堺屋が建立したものと伝えられる。
 江戸前期〜中期にかけて十代目・雲洞和尚が時運を隆盛させた。
 元禄四(1691)年、雲洞和尚が京都の仏師・安清を呼び寄せ。二年がかりで彫作させたといわれる「阿弥陀如来像」。
 一説には…元禄十六(1703)年、鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」が造立。とある。
 ※ 鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」の詳細については下記参照

 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【眼明本尊の絵像(かいがんほんぞん)】
 多田満中の妻が我が子・美女丸の死を悲しみ慟哭のあまり失明してしまったのを不憫に思った恵心僧都(けいしんそうづ)が、衣の袖に弥陀の絵を描いて与えたところ、失明した両眼が再び光を得た。という由緒あるもの。
 多田満中:平安中期(960年頃)の武将。摂津国多田(兵庫県川西市)の多田源氏を称えた。別名:源満中。藤原氏に属し源氏発達の基礎を築いた武将。
 恵心僧都:平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。比叡山横川の恵心院に住んだため、この名が生まれた。
 良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、のちに浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。

 【木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)】光背までの高さ約4m
 雲洞住職の代の元禄十六(1703)年に作られた丈六の大仏。
 江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。


 …と、こんな「阿弥陀寺」でありますけど、早速、本堂の「鞆の大仏」を参拝です。
 「鞆の大仏」様とお別れしまして、次は「明円寺・医王寺」に向かいます(^-^)//"

 

 

 

 

 

<1/11-2/11-3/11-4/11-5/11-6/11-7/11-8/11-9/11-10/11-11/11>
← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →