2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <1/11> |
■2022年11月05日21:15
10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆
10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策となりましたGONsanです(^.-)☆
◆鞆の浦 de ART 2022
・鞆の浦 de ART 2022 〜 独創性あふれる“違和感”が心地いい 潮待ち仕掛けのアート祭
全国のアートファンが集まる「瀬戸内国際芸術祭」をあえて挙げるまでもなく、近年、現代アートと瀬戸内海地域の相性の良さは広く知られるようになりました。
瀬戸内海を囲む広島・岡山・香川・愛媛県をひとつの文化圏と捉えるなら、そのエリアの橋渡しとなっているのが、いまや現代アートといえるかもしれません。
そうした機運を盛り上げるアートフェスのひとつが「鞆の浦 de ART」です。
・「鞆の浦 de ART」は、どんなアートイベント?
「鞆の浦 de ART」は、鞆の浦(福山市鞆町)の町一円が現代アートの舞台となるアートフェスです。
地元有志による実行委員会(鞆の浦 de ART実行委員会)の主催で、会期は2022年9月25日(日)から10月16日(日)(最終日は午後3時まで) 。
キュレーター(企画・運営者)を、造形作家のヨシダコウブンさんが務め、16人のアーティストと1チームが出展。
初秋恒例の芸術祭は、2022年に第10回の節目を迎え、太田家住宅(国重要文化財)、静観寺など鞆地区の名所が展示会場となっています。
また連動企画として、豪華景品付きフォトコンテストを開催しています。
感性を投影した作品にハッシュタグとして「#鞆アート2022」と添えて、Facebook・Instagramから投稿可能です。
その他不明な点については、鞆の津の商家(福山市市鞆町鞆606)に設けられた総合案内所(期間中、土・日・祝日のみ)で確認してください。
…と、WEB上で「鞆の浦 de ART 2022」を検索しますと、こんな記載がありました(^-^)
では、早速、いつものように安国寺から散策スタートです。
正面が、高級感と異国情緒に溢れる唐様(禅宗様)建築の安国寺釈迦堂(国重文)で、その手前が安国寺地蔵堂です。
◆安国寺地蔵堂
--- https://bin-navi.com/rekishi-essay/23940/ ---
・690年間鞆を見守り続けた優しきまなざし
戦国時代、足利義昭が御座所とした鞆の浦。「麒麟がくる」で全国的に「鞆幕府」が知られることになった。室町幕府最後の将軍足利義昭は鞆で終焉をを迎えるが、初代の足利尊氏もまた鞆で挙兵した。「足利氏鞆に興り鞆に滅ぶ」と言われるゆえんである。
その足利尊氏が南北朝動乱の戦没者を弔うために国ごとに一寺一塔(安国寺・利生塔)を建てた。備後安国寺は歴応2年(1339)の建立とされているが、もともとは法燈国師が開山した「金宝寺」(文永10年(1273)に仏堂建立)
が前身である。
鎌倉時代の金宝寺仏堂が継承された安国寺釈迦堂、その前の参道に堂宇が立っている。安置されているのは鎌倉末期元徳2年(1330)造立の石造地蔵菩薩坐像である。2m余りの堂々とした石仏の、なめらかで丸みを帯びた造形は、慈愛に満ち、手を合わせる者の心をすくいあげてくれるようだ。
この地蔵菩薩は、藤原貞氏なる者が健在である両親の福寿を祈って逆修法事を修し、供養仏として造立したものである。願主である藤原貞氏が、大変な富裕層であったことがわかる。また逆修石塔の造立は鎌倉時代にはまだ多くなかったという。
地蔵菩薩は、町の片隅で、今も願主の願いをかなえ続けているのだろうか、それともその役目を終え、衆生を救うために優しきまなざしを向け続けているのだろうか。鞆のもつ歴史の重みは計り知れない。
地蔵堂の中の石像は、国の重要美術品に指定されている石造地蔵菩薩坐像。舟形光背の丸堀りの石像が蓮華座に乗っています。肩から結跏趺座した下部への流れるような曲線が美しいですネ。
地蔵堂の中には説明資料がありますので、戴きです(^-^)
これには、こんな記載が…
◆歴史散歩 253
安国寺の地蔵菩薩 -- 鎌倉時代の石造仏 --
鞆町にある安国寺。その参道脇にある地蔵堂に石仏地蔵菩薩が祭られています。地蔵は蓮華座(蓮の花をかたどった台)に乗り、舟形光背(舟を縦に立てた形に似た菩薩の体から発するという光を表す)を背負っています。高さ2mの大型石仏で背面には文字が刻まれています。
この文字を意訳すると「慈父の恩の高きことは山王のようで、慈母の恩の深きことは大海のようである。私がもしこの世に長く生を受けることができれば、言葉に尽くせるはずのない慈母の恩を説いて回ることであるがそれはできない。それを表現してくださるのは地蔵菩薩しかないと考え、沙弥円乗と比丘尼妙連が善根を積み、逆修してこの地蔵菩薩を建立する。元徳2年卯月(旧暦4月)23日願主藤原貞氏」と読めます。願主とは仏像の建立、供養の依頼、来世往生などの祈願をした人物を言います。
このことから、1330(元徳2)年鎌倉時代末、藤原貞氏が父(円乗)と母(妙連)の生存中に逆修供養(生前にあらかじめ仏事を修めて死後の冥福を祈ること)を遂げた石仏であることを伝えています。そして、今から約700年前にこの地に地蔵信仰が伝わっており、石仏を造立できるだけの力を持った人物がいたことがわかります。また、年代や願主名、造立の趣旨まで明らかで、石造文化財としての価値が高いことから国の重要美術品に認定されています。
…と、こんな記載で、ご両親が生存中に供養を執り行い、石仏も造立とは、イィお話しですねぇ〜凡人には仲々出来ません事ですし、財政的にも大変裕福な方でしたのでしょうねぇ(^-^)//"
それでは、安国寺の中へ…境内を通り抜け「安国寺釈迦堂」に向かってみます。
◆備後安国寺(びんごあんこくじ)
鎌倉時代に創建され、室町時代に足利尊氏により安国寺と改称された臨済宗のお寺。
釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師坐像はいずれも国の重要文化財に指定されています。
釈迦堂裏には枯山水庭園があり、堂前には国の重要美術品の石造地蔵菩薩像があります。水野勝成が子どもの安穏を祈り建立安置した「子安観音菩薩」は、子授けや子育てにご利益があると評判で、遠方からも祈願に訪れています。
◆安国寺(福山市)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は瑞雲山。 釈迦堂は国の重要文化財に指定されている。
・歴史
文永10年(1273年) - 無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺(安国寺の前身)創建、釈迦堂(仏殿)建立
文永11年(1274年) - 阿弥陀三尊像を造立
暦応02年(1339年) - 足利尊氏による再興
室町時代 - 寺号を「安国寺」と改める
安土桃山時代 - 毛利輝元、安国寺恵瓊(1579年)による再興
江戸時代初期 - 京都妙心寺の末寺となる
大正09年(1920年) - 法堂を焼失
昭和02年(1927年) - 釈迦堂が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和17年(1942年) - 阿弥陀三尊像、法燈国師像が重要文化財(当時の国宝)に指定される
昭和30年(1955年) - 境内が広島県の史跡に指定される
◆安国寺釈迦堂(あんこくじしゃかどう)
備後の安国寺は暦応2年(1339年)足利尊氏が国ごとに建立した安国寺の一つである。堂内の法燈【ほっとう】国師坐像(重文)の躰内墨書及び達磨【だるま】大師位牌【いはい】(県重文)の銘により、この寺の前身に金宝寺があったことが明らかとなった。
現在の釈迦堂は、金宝寺の仏殿と伝えられ、その後慶長4年(1599年)、明和2年(1765年)の大修理を経て昭和8年(1933年)解体修理がなされた。
禅宗様は鎌倉時代初期、宋より帰国した僧栄西によって導入された建築様式で、この釈迦堂の随所にこの様式を見ることができる。
尾だるきの組み入れ、屋内架構の複雑さ、堂中央の鏡天井等その内部の構成はすばらしい。また軒の反りは大きく、軒廻りは大疎【まばら】だるきとし、桟唐戸、弓連子(波欄間)を設けている。
これらはいずれも禅宗様の特徴をよく備えたもので、典型的な禅宗様仏殿として貴重なものである。
釈迦堂を拝観しましたら、裏側の枯山水庭園へ。
何度も訪れておりますので、ササッと観て廻りたいと思います(^-^)//"
◆備後安国寺 本堂庭園(広島県福山市鞆町後地)
--- http://junreiwoguranomiyabi.blog.fc2.com/blog-entry-1115.html ---
・昭和の造園家が絶賛した戦国の造園(2022.1.9)
釈迦堂を内陣で参拝したあとは堂の裏手にある庭園へ。
説明板では庭園に並んでかつて本堂・庫裏があったとありますが、今は跡を残すのみです。
『安国寺の伽藍配置は各禅宗本山に見るものと同じ直綜式の三門・仏殿・法堂・方丈が完備されていたと推定され、方丈側面の庭園として室町期の枯山水が安国寺方丈庭園として荒廃されながらも保存されてきた。
枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表現した室町末期の作庭と推定される。
三途の川には石橋、蓬莱山には岩石の仏様を置いた蓬莱式庭園とも呼ばれる。
中央の鶴島には蘇鉄、亀島には松を植えた鶴亀式庭園。鶴亀式庭園は戦国時代に流行したもので、武将が自分達や主家の繁栄を願って作庭したものである。石橋の矢穴や長さ高さが桃山期の手法で、慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が改造したと伝わる。』 とあります。
説明書に拠れば荒廃していた庭園を復元修理したのは昭和の作庭家・重森三玲氏。これに拠り作庭当時の美観を取り戻したとされます。
本庭は室町末期の庭園として有名な京都大徳寺大仙院、妙心寺退蔵院の庭園の折衷として構成されていますが、部分的には枯瀧の石組みは天正期の京都本法寺に類似したりと様々な時代の要素が見られます。
中国路最古の枯山水庭園と言われ、参拝者は石に腰掛けながらゆっくり眺める事ができる訳ですから、堂宇は無くなったと言え恵瓊の意志は今に生きているといえるでしょう。
◆安国寺(あんこくじ)のソテツ
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64087.html ---
ソテツは九州南部から琉球列島に分布する常緑の裸子植物であるが、関東以西の各地で植栽され巨大な株に生長している名木・大木も少なくない。
安国寺のソテツは安国寺釈迦堂(重文)の背後にある枯山水の庭園内にあり、2株となっている。根廻りは5.65mと5.45m、樹高約9mで、県内有数の大木で庭に風情をそえていたが、白蟻と台風の被害を受けて倒れ、現在その根株から新しい葉茎が伸び、昔日の面影をわずかにとどめている。
◆安国寺のソテツ
--- https://www.jalan.net/kankou/spt_34207ac2100139847/kuchikomi/0005287501/ ---
かつては巨木だったという安国寺のソテツですが、シロアリと台風の被害で倒れ、今はその根株から生えた株から往時を偲ぶしかありません。
ただ、前回訪ねた時と比べると、かなり大きくなった印象を受けました。安国寺には門を入ったところにもソテツが植わっていますが、件のソテツは本堂裏の庭園にあります。
安国寺庭園にはもう一つ見るべき木があります。それは楷の木です。
安国寺は足利尊氏ゆかりの寺であることから、栃木県足利市から贈られたものだと説明されていました。大正4年に白澤保美博士が中国の孔子の墓地、孔林から持ち帰った楷の木の種子がもとになっているそうです。ウルシ科の高木で紅葉が美しいことで知られていますが、日本には自生していません。次回はこの木の紅葉を見るために秋に訪ねたいと思いました。
…と、WEB上の記載から引用しますと、こんな安国寺庭園でありますようです。
それでは、安国寺とお別れし、お隣りの「正法寺」に向かいます。
◆正法寺
1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。
京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。
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