2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <2/11>

 

 ◆正法寺について

 --- http://www.shoubouji.net/about.html ---

 ・創建から400有余年 鞆の町とともに歩んだお寺の歴史

 正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
 臨済宗妙心寺派の詳細については「臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト」をご覧ください。

 ・正法寺こぼれ話@

 -- 鞆の浦・元禄絵図 --
 当寺の北隣に「安国寺」という1273年から続くお寺があります。当寺創建時にその安国寺の住持を務めていたのは安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物でした。
 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

 ・正法寺こぼれ話A

 -- 当寺に咲く蓮の花 --
 当寺を再建した深溪和尚は庭造りに大変熱心だったと伝わっていますが、400年の時を経た現在、和尚の庭がどのようなものであったのか、残念ながら見ることはできません。
 ですが、ある僧が和尚の庭を眺めた折に遺した一句からその姿を窺い知ることができます。
 「ひとやあらぬ花はむかしの作庭」

 (直訳:この庭を作られた風流な方は既に故人と聞いているが、きれいに咲いている花々は故人にかかわりなく競い咲いているようだ)
 天和元年(1681年)「あくた川のまき」より

 この句は和尚が当寺の住持となってから60年程後に詠まれたものです。庭の数寄に感じ入り、庭を作った人への追憶、そして人間の儚さが秘められたこの一句から、和尚の庭は花が咲き誇り、思わず発句したくなるような素晴らしいものであったことが推察されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山門脇の説明板には、こんな記載が…

 ◆正法寺(しょうぼうじ)

 正法寺は、1598年に建てられました。
 山門は1800年代に造られ、今も残っている大変貴重なものです。当時、和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、朝鮮通信使の定宿としても利用されました。境内の羅漢堂には、十六羅漢像が安置されています。本堂奥に毘沙門天が祀られています。

 それでは、次は「慈徳院」へ。

 ◆慈徳院

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12651/ ---

 臨済宗妙心寺派、山号は大悲山、院号は慈徳院。
 慶長年間、備後国を領有した福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し、現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

 ◇山門の意匠も見どころたくさん
 -- 思わず息を飲む、山門の見事な意匠、鬼瓦 --
 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭―、鞆っこにとっての癒しの空間です。

 ◇静かに佇む薬師堂、先進的な国際的商業港のなごりが、ふわり
 -- 国際的な港町の先取の気風―、宗派問わない薬師堂 --
 境内には薬師堂がしんと佇んでいます。当時の芸備藩主・福島正則がキリスト教に対し寛容であり、また、国際的な商業港としての開放的な鞆の浦の気質も相まって、この薬師堂には、宗派を超えた信仰が集まっています。いかにも、鞆の浦らしい、大らかにして開明的な、信仰の“かたち”ですね。

 続いて、「本願寺」へ。

 ◆本願寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12646/ ---

 正式名称を興楽山道山院本願寺と言い、開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。
 寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもありました。

 ・時宗の開祖、一遍上人に想いを馳せて
 備後地方には時宗の寺院は珍しく、江戸時代、福山領内の時宗寺院はいずれも鞆の浦にある原村の永海寺と、西町の本願寺の2寺だったそうです。永海寺はその後焼失して廃寺となってしまったので、現在は本願寺のみが孤塁を守っています。開基一遍上人の立像も安置されているこのお寺で、日本の宗教史に想いを馳せてみてはいかがでしょう。

 ・無限の優しさを秘めた石造りの観音像 -- 衆生済度の観音像 --
 境内にある小さなお堂には、石を彫って作った素朴な千手観音がまつられています。千手観音とは、千手千眼観世音菩薩の略で、それぞれに眼の付いた千本の手で、衆生をもれなく救って下さるありがたい菩薩様です。除怨、滅罪の観音様として、鞆の浦の人々の信仰を集めて来た千手千眼観世音菩薩。手を合わせれば、もちろん旅人である私たちも、もれなく救って下さるに違いありません。

 

 

 

 

 

 

 

 本願寺を後にしますと、次は、沼名前神社に参詣です。
 沼名前神社参道を潜り進みますと、二の鳥居手前の右側にありますのが「真言宗麾尼山大観寺」ですけど、建物としては真新しい感じで、鞆の他のお寺とは随分趣を異にします。これは、火災に伴う建て替えで止むを得ないのでありますが…


 ◆真言宗麾尼山大観寺

 -- 鞆町 大観寺 --
 福山市鞆町の真言宗麾尼山大観寺は寶巖寺?常喜院?玉泉寺?地福院?増福寺の五ヶ寺が、昭和十三年(1938)に合併して大観寺となった。沼名前神社参道、二の鳥居手前の右側にある。
 2014年5月1日午後9時頃出火し、木造の本堂?庫裡?倉庫など全焼し、本堂にあった市重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失。本堂新築工事は平成28年8月2日〜平成29年11月30日。

 ◆麾尼山 大観寺(真言宗)

 麾尼山大観寺は昭和初期に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合した寺院である。
 増福寺は、永禄年間(1558〜1569年)に、玉泉寺・地福院(江戸初期は泉蔵坊)は天正年間(1573〜1591年)に再興されたと伝えられる。宝嚴寺(江戸初期は長福寺)と常喜院は慶長10(1605年)年頃の建立と伝えられる(『あくた川のまき』天和3(1683年)。
 再々、朝鮮通信使の上官の宿舎になった。江戸時代は真言宗明王院末寺。

 《福山の大観寺が全焼 市重文「菩薩立像」も焼失》
 2014年5月1日午後9時ごろ、福山市鞆町の大観寺から出火、木造の本堂、庫裏、倉庫など計約400平方メートルを全焼し、本堂にあった市指定重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失した。
 市文化課によると、大観寺は昭和13年に周辺の5つの寺を統合し建立された真言宗の寺。木造地蔵菩薩立像は47年に市重要文化財に指定された。畑信次重伝建文化財担当課長は「所有者と大切に保存してきた。こういうことになり大変残念だ」と話した。

 ◆福山の大観寺が全焼 市重文「菩薩立像」も焼失 広島

 --- 2014/05/03 02:09 産経新聞 ---

 1日午後9時ごろ、福山市鞆町の大観寺から出火、木造の本堂、庫裏、倉庫など計約400平方メートルを全焼し、本堂にあった市指定重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失した。けが人はなかった。
 福山西署などによると、現場は寺や住宅が密集する地域。出火当時、寺には誰もいなかった。同署が出火原因を調べている。
 市文化課によると、大観寺は昭和13年に周辺の5つの寺を統合し建立された真言宗の寺。木造地蔵菩薩立像は47年に市重要文化財に指定された。畑信次重伝建文化財担当課長は「所有者と大切に保存してきた。こういうことになり大変残念だ」と話した。
 大観寺の金尾全宥住職は「連絡を受けてすぐに駆けつけたが、火が広がっていた。まだ気持ちの整理がつかない」と落胆した様子だった。

 
二の鳥居を潜り進みますと、右側に「森下博翁」の銅像が…

 ◆森下博翁像

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10854957973.html ---

 森下博氏は森下仁丹の創業者。
 博氏の祖父は沼名前神社に婿養子に入り佐野を名乗って宮司を職とした。しかし、出身である森下家に跡継ぎがいなくなったことから、祖父は森下家に戻り煙草の製造販売をはじめたが商売はうまくいかなかった。
 そこで博氏は九歳で学校をやめさせられ、宮内村の煙草商「角新」に見習奉公に出された。父親が亡くなると一念発起した博氏は大阪へ出て小さな薬種商をはじめた。
 これが森下仁丹へと発展していく。森下博氏は昭和十八(1943)年三月二十日75歳で亡くなられている。
 「撫屋(なでや)」は森下家の屋号。

 もっと詳しい森下博の記事はコチラ↓
 森下家15代・佐野右衛門/森下 博/森下仁丹創業者(http://ameblo.jp/rediscovery/theme-10009604374.html)

 ◆森下 博

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 森下 博(もりした ひろし、1869年12月5日 (明治2年11月3日) - 1943年(昭和18年)3月20日)は、日本の実業家、森下仁丹の創業者。広告宣伝を積極的に行って商品の名を広め、日本の広告王と称された。広島県鞆町生まれ。幼名は茂三(もぞう)。

 ・誕生
 1869年、備後国沼隈郡鞆町(現・広島県福山市鞆町)に沼名前神社の宮司を務める森下佐野右衛門と佐和子の長男として生まれる。博が幼い頃、父は宮司を辞めて煙草の製造販売に転業するも、「士族の商法」で接客したため売上は芳しくなかった。このため、父は学問よりも商売の智識の習得が今後は役に立つと考え、博が9歳の時に学校を辞めさせて、備後府中宮内村の煙草商を営む那部嘉右衛門の元へ見習奉公に出した。博はここで12歳まで働いて様々なことを学んだ。
 見習奉公の年季を果たした博は奉公先近くの小学校の先生の勧めで『學問ノスヽメ』や『世界国尽』などの福澤諭吉の著書を学び大きな感銘を受けたが、父の病気により鞆町の実家へ呼び戻されたため、満足に学校に通うことは出来なかった。
 1882年(明治15年)、父が亡くなり家督を相続して15代佐野右衛門を襲名して宮司職を継いだが、世は文明開化の時代、大志を抱き1883年(明治16年)15歳の春に数日間歩き通して単身大阪へ上った。大阪では泊園書院(現・ 関西大学)で学びつつ、医者となっていた叔父の沢田吾一の世話を受け、叔父の知人である桑田墨荘の紹介により、心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」で丁稚奉公を始めた。--(以下、略)

 左側の石段手前には、神馬舎が設けられ、中には白馬が奉納です。
 随身門を潜りますと、右側に能舞台が…

 ◆随身門

 --- https://ameblo.jp/shimakaze2002/entry-12549102389.html ---

 随身門はお寺でいう「仁王門」のような存在で、随身の姿の守護神像を左右に安置した神社の門のことです。
 この二神は?神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどおさ)といわれ、俗に矢大臣・左大臣と称されています。
 現在の沼名前神社の随身門は享保20年(1735年)の建立だそうですが、故・安井洋氏著の鞆の浦三千年には、この年に鞆奉行加藤杢兵衛忠治が「改築」したと記述があり、それ以前にも随身門があった可能性を示してします。

 ◆沼名前神社 能舞台

 --- 重要文化財 昭和28年11月14日指定 ---

 この能舞台は豊臣秀吉が愛用し伏見城内にあったものといわれ、初代藩主水野勝成が二代将軍徳川秀忠よりゆずり受けたと伝えられます。三代水野勝定がこの社に寄進し、1738年(元文3年)この場所に設置されました。この能舞台は、それぞれの部材に番号や符号をつけた組み立て式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代の能舞台の特徴を持つ貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。
 <構造>一重切妻造、桁行5.45m・梁間5.33m、屋根こけらぶき

 

 

 

 

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