2022/12/27(火) 迫山古墳・備後国分寺・清水氏庭園℃U策 <5/8>

 

 

 

 

 

 備後國分寺の散策を終えますと、東側に隣接の下御領八幡神社≠ノも立ち寄ってみます事に。
 八幡神社の鳥居脇には、こんな説明板が…


 ◆下御領八幡神社

 由緒 御祭神
 誉田別命(応神天皇) 田心姫命 湍津姫命 息長足姫命(神功皇后) 市杵島姫命

 聖武天皇の天平年間の創立にて「宇佐八幡宮を勧請し安那の産土神 國分寺の鎮守に有」と伝えられています。
 昔は國分寺八幡宮と言われていました。応仁の乱(1467-77)後、社殿は大破、山名忠勝(神辺城主)により永世4年(1507年)に山名宮内小輔忠勝が本殿拝殿を再興して社領二十貫を与えられる。
 天文年中(1532-55)宍戸安芸守隆家が背後の茶臼山領に築城し武運を祈る。永禄元年(1558)杉原盛重が神辺城主となると家臣菊池肥前守がここに在城武運祈り戦功あり。永禄5年(1563年)3月毛利元就の命により國分寺と共に当社を杉原盛重が修復した。
 延宝元年(1673)5月16日に大水害により社殿は大破。貞享3年(1686年)水野勝慶(福山城主)の命により修復(棟札現存)。
 正徳2年(1723年) 宝暦4年(1764年) 安政5年(1858年) 大正14〜15年と修理修復を重ねています。

 ※ 現在の本殿は約350年前の建物です。昭和35年には今の拝殿が建てられました。
   前夜祭 10月の第一の土曜日 大祭 日曜日


 …と、こんな歴史のあります下御領八幡神社≠フようであります(^-^)//"
 WEB上で検索しますと、こんな記載もありました(^-^)/"


 ◆下御領八幡神社
 「深安神社めぐり」の21番目の神社


 --- http://z80bingo.starfree.jp/21-simogoryo/21-simogoryo.html ---

 【住所】福山市神辺町下御領一〇七三
 【祭神】誉田別命、息長足姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵姫命
 【例祭】十月第一日曜日(旧例祭日 旧暦十月十五日)
 【由来】
 天平年中(七二九〜四九)の創立と伝えられ、宇佐八幡宮より勧請し、国分寺の鎮守社であったという。応仁の乱(一四六七〜七七)後社殿大破し、山名宮内少輔忠勝が永正年中(一五〇四〜二一)本殿及び拝殿を再造立して社領二十貫を付けた。その後、天文年中(一五三二〜五五)、大内家臣、宍戸安芸守隆家が当社背後の茶臼山に築城し、当社に武運を祈願したという。
 永禄元年(一五五八)杉原氏が神辺城主となると家臣菊池肥前守がここに在城し、武運を祈願して戦功があり、永禄五年三月、毛利元就の命により国分寺と共に当社を杉原盛重が修復した。永宝元年(一六七三)五月十六日大水害により社殿大破し、貞亨三年(一六八六)福山城主水野氏の命を似て大修復した。その当時の棟札が現存する。
 大正十年本殿を大修理、昭和三十五年拝殿を再建する。御祭神の応神天皇(誉田別命)は第一五代の天皇。神功皇后(息長足姫命)はその母君で共に日本の国家形式を確固たらしめ、大陸文化を輸入し、日本文化の興隆をはかられた。

 
-- 広島県神社庁 深安二十六社神社めぐりより転記 --

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、まずは下御領八幡神社≠ノ参詣し、境内を拝見です(^.-)☆
 んっ!?、石の亀=c説明板に眼を通しますと、こんな記載が(^-^)


 ◆石の亀
 マムシ除けとして奉納されました。悪い虫に付かれる事なく健やかであられますようお守りしています。


 …との事ですから、とりあえず、石碑の前の石の亀に触り膜っておきました(^-^)
 ところで、注連縄を付けられましたこの石碑…表面には何か記載と言うか刻まれていますのですけど、判読不明。何と綴られていますのでしょうねぇ〜
 社殿の右側方向に進んで行きますと、砲弾が奉納されておりました。砲弾下の台座には、『明治39年5月 発起者 土肥七郎』と刻まれておりましたけど、『土肥七郎』sanのお名前は、好右衛門義擧碑∞延宝の水害 供養塔≠ノも記載がありましたネ。当時の有力者でしたのでしょうねぇ〜
 それにしましても、福山市内のアチコチの神社に『砲弾』が奉納されておりますけど、これは、


 ◆仏教の戦争責任D 寺に残る「砲弾」と「天皇の位牌」

 --- https://news.yahoo.co.jp/byline/ukaihidenori/20220724-00304989 ---

 ・寺に残る戦争の痕跡

 戦時中は多くの寺が銃後運動を熱心に推進した。その戦争の痕跡は地域の末寺にも残されている。それが「顕彰碑」「天牌」「戦時戒名」「奥津城」などである。戦利品の砲弾を祀ったり、大規模な防空壕が残っていたりする寺もある。戦争の痕跡を求めて全国の寺院を訪ねた。
 戦地における勇士らを讃えた「顕彰碑」が今なお、残っている寺がある。顕彰碑は特に日露戦争時に多くつくられた。太平洋戦争が始まり戦局が悪化すると、顕彰碑をつくるための人材も余裕もなくなり、あまり顕彰碑はつくられていない。
 能や歌舞伎の演目でも知られる和歌山県にある道成寺には、日清・日露戦争時の大きな顕彰碑がある。その顕彰碑の台座には、日露戦争時のロシア軍の砲弾が埋め込まれている。これは1904(明治37)年の旅順攻囲戦でロシア軍を撃破した時の戦利品だ。この顕彰碑の前では戦時中、陸軍主導で、戦意発揚のための追悼法要が実施されていたという。

 ・なぜ寺に砲弾が?

 なお、各地の寺院や神社にはなぜか、砲弾が奉納されていることが多い。これは日清戦争後、「陸軍戦利品整理委員会」が戦争記念品として自治体に分配したのがきっかけだ。そこから寺院や神社、学校、役場などに分けられた。日清戦争後、国内では砲弾およそ8,700個が献納され、日露戦争ではおよそ2万個以上の砲弾が神社仏閣に奉納されているという。
 東京・青物横丁にある海晏寺境内にも、複数の砲弾が置かれているのを確認した。最大のもので高さ90センチ近くある。それが、日清・日露戦争のいずれの砲弾かは不明であるが、戦艦の主砲のものとも考えられる。同寺に聞けば、境内には岩倉具視の墓所(非公開)があり、そこには別の砲弾と大砲が置かれているという。
 しかしながら、砲弾の多くは太平洋戦争時の金属供出によって回収。再び、砲弾などの武器に使用された。…


 …と、こんな記載がWEB上にありましたけど、明治39年5月≠ニ言いますと、日露戦争の戦利品と言ったところでしょうか…
 『日清戦争後、国内では砲弾およそ8,700個が献納され、日露戦争ではおよそ2万個以上の砲弾が神社仏閣に奉納されている…』との事ですから、福山市内のアチコチの神社で眼にしますのも納得です(^.-)☆
 社殿の東方に進みますと、艮神社≠ェ…
 急いで、サイフの中を確認しますと、ロト6∞ロト7≠フ一枚買いがありましたので、丁重に当選祈願をしておきました(^-^)
 でも、お賽銭をケチりましたので、願いは叶いませんかも(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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