2022/12/27(火) 迫山古墳・備後国分寺・清水氏庭園℃U策 <1/8>

 

 ■2023年01月19日11:52
 年の瀬迫った12/27(火)は、迫山古墳・備後国分寺≠散策でした(^.-)☆


 年の瀬迫りました12/27(火)は、ウォーキングを兼ねまして、神辺町の迫山古墳≠ニ備後国分寺≠散策となりましたGONsanです。
 まず向かいましたのが迫山古墳=B古墳近くの神辺スポーツ広場の駐車場に車を駐め、周辺を見廻しです。
 眼の前の池の西側淵に、小さな山が…この山頂に丸山古墳≠ェ有るようですから、WEB上で検索してみますと、特に古墳の画像の掲載は出て来ません。
 どなたかのホームページに『小さな山に見えます。山頂?に直径20m・高さ3m位の円墳があるそうです。立ち入り禁止の表示が目に付きます。私有地のようです。』程度の記載のみですから、ここはパス。
 迫山古墳の登り口には、こんな説明板が…これには、こんな記載がありました。

 ◆迫山古墳群

 --- 神辺町大字湯野迫山 広島県指定史跡 ---

 標高84mの丘陵南斜面に位置する当古墳群は、横穴式石室をもつ古墳を中心に箱式石棺2基を含む計11基から構成されています。1983年に発掘調査が行われた第一号古墳は、直径19m、高さ5mの円墳で、全長11.6mに及び県内最大級の横穴式石室を有しています。石室からは、副葬品として環頭太刀・直刀・鉄鏃などの武器類をはじめ、馬具や装身具(耳環・玉類)、土器(須恵器・土師器)が出土した。なかでも環頭太刀は鞘と柄に金銅製の金具を、柄頭に鳳凰を具象した環頭を装着したもので、大和政権が地方へ進出する過程で各地の豪族に政治的、軍事的シンボルとして分与したものと考えられています。この古墳は6世紀末頃に造られたと推定され、大和政権の地方支配と密接に係わった豪族の墳墓として、当地方の古代社会を考える上で極めて貴重な文化財といえます。
 -- 1985年3月 湯野迫山古墳群保存会・神辺郷土史研究会 --

 --- 2019年度 湯田学区まちづくり推進委員会 ---


 …と、こんな迫山古墳群であります。
 それでは、案内表示に従って、迫山第一号古墳≠ノ上がってみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 古墳までの上り道は、ほぼ真っすぐですから、のんびりと進行です。落ち葉も結構有りますから、足が滑らないようにユックリと(^-^)
 黙々と上がっておりましたら、前方に古墳の説明板が見えて来ましたネ。ほどなく、迫山第一号古墳≠ノ到着となりました。
 説明板に眼を通しますと、こんな記載でありました。


 ◆広島県史跡 迫山第1号古墳

 深安郡神辺町大字湯野字迫山9-1
 昭和61年11月25日指定

 備後南部で最大の横穴式石室をもつこの古墳は、この地域のリーダーとその家族が葬られていました。石室内の発掘調査では、さまざまな副葬品が出土しましたが、なかでも儀式に使用された環頭太刀は、このリーダーが畿内政権と非常に親しい関係にあったことを示す出土品というます。
 この太刀を持つことができる人物は限られており、迫山古墳群だけでなく、神辺平野の東部地域の軍事組織を統率した指揮官クラスの人物であったと思われます。
 また、この迫山古墳群の眼下にある大宮遺跡からは大型建物群の集落が見つかっており、この古墳群に葬られた人達が暮らしていた館跡と考えられています。

 【古墳データ】
 《古墳の規模・形》直径21.5m、高さ5mの円墳
 《石室形式・規模》片袖式横穴室石室、全長11.6m、玄室高2.8m、玄室幅2.5m
 《出土品》武器(単鳳環頭太刀1・銀像嵌太刀1・鉄刀1・鉄鏃)、馬具(ホ具2)、装身具(耳環8・切子玉2・勾玉1・管玉12・ガラス玉7・なつめ玉・練玉210)、土器(須恵器・土師器)
 《時 代》古墳時代後期末-6世紀末

 
--- 平成15年3月31日 福山市教育委員会 ---

 …と、こんな記載でありました。
 WEB上で検索してみますと、こんな記載もありました(^-^)//"


 ◆広島県の文化財 - 迫山第一号古墳

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206121060.html ---

 迫山第1号古墳は、神辺平野を望む丘陵尾根先端の山腹傾斜面に位置し、11基で構成される迫山古墳群中にあって最大の規模である。墳丘は版築状につき固めて盛土しており、径21.5m、高さ5mの円形をなす。墳丘の北面及び西側では浅い周溝がみられ、石室前面の両側には墳裾を示す列石も見られる。副葬遺物は、武器類、馬具類、装身具類、土器類の計274点がある。本古墳は、いわゆる大型横穴式石室墳と言われるものであり、玄室内空間容積44.8平方メートル、玄室床面積16.0平方メートルは、それぞれ県内第2、第3位の規模である。また、石室内から出土した多量の遺物は県内では3例目の単鳳環頭大刀や銀象眼鍔付大刀など美術品として価値が高いものだけでなく、同一石室からの一括出土品として当時の生活、技術などを知る上で価値が高い。また、これらは備後南部における古墳時代後半期(6世紀)の政治的動向を解明する上で貴重である。

 ◆単鳳環頭大刀(広島県重要文化財)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/kannabe-rekishiminzoku/3148.html ---

 ・1987年3月30日指定

 単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は、復元全長約80cm、刃の長さ約56cmで、迫山第1号古墳(広島県史跡)の横穴式石室内から出土しました。柄に8面体の金銅製筒金具、柄頭に楕円形(長径6.0cm、短径4.3cm)の金銅製環頭が装着され、環頭中央に鳳凰、周りに2頭の龍が施されています。県内では3例目の単鳳環頭大刀で、畿内を中心とする大和政権から地方豪族を掌握する過程で政治的・軍事的シンボルとして、この地域を統率するリーダーに分与されたものと考えられています。古墳時代後期(6世紀)における工芸技術の粋が集められており、当時の技術力の高さがうかがえます。また、大和政権と備後南部におけるこの時代の政治的動向を示す大変貴重な資料といえます。

 ◆迫山1号墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 迫山1号墳(さこやまいちごうふん)は、広島県福山市神辺町湯野にある古墳。形状は円墳。迫山古墳群を構成する古墳の1つ。広島県指定史跡に指定され(指定名称は「迫山第一号古墳」)、出土品は広島県指定重要文化財に指定されている。

 ・概要
 広島県東部、神辺平野北縁の丘陵において、平野を望む丘陵尾根先端の山腹に築造された古墳である。一帯に分布する迫山古墳群12基のうちでは最大規模になる。これまでに1983・1986年(昭和58・61年)に発掘調査が実施されている。
 墳丘は版築によって構築される。墳形は円形で、直径21.5メートル・高さ5メートルを測る。墳丘の北面・西面では浅い周溝が認められるほか、石室前面の両側の墳裾には列石が据えられる。埋葬施設は片袖式の横穴式石室であり、南東方向に開口する。石室全長11.6メートルを測る大型石室であり、石室内からは環頭大刀・銀象嵌大刀などの多数の副葬品が検出されている。
 この迫山1号墳は、古墳時代後期の6世紀末葉頃の築造と推定される。特に環頭大刀の出土は全国でも限られており、畿内ヤマト王権との密接な関係のもと神辺平野東部地域では最有力となる古墳として注目される。また眼下の大宮遺跡では大型建物群が検出されており、本古墳の被葬者の拠点集落になると推測される。
 古墳域は1986年(昭和61年)に広島県指定史跡に指定され、出土品は1987年(昭和62年)に広島県指定重要文化財に指定されている。

 ・来歴
 平安時代末頃、石室内の乱掘。
 1983年(昭和58年)、発掘調査。副葬品の出土(神辺町教育委員会、1984年に概報刊行)。
 1986年(昭和61年)、発掘調査(神辺町教育委員会、1987年に概報刊行)。
 1986年(昭和61年)11月25日、広島県指定史跡に指定。
 1987年(昭和62年)3月30日、出土品が広島県指定重要文化財に指定。

 ・埋葬施設
 埋葬施設としては片袖式横穴式石室が構築されており、南東方向に開口する。石室の規模は次の通り。
 石室全長:11.6メートル
 玄室:長さ6.2メートル、高さ2.8メートル、幅2.5メートル
 羨道:入り口幅2メートル
 石室は二子塚古墳(福山市駅家町中島)にも匹敵する巨大石室であり、玄室内空間容積としては44.8立方メートルで広島県内第2位、玄室床面積としては16.0平方メートルで広島県内第3位の規模になる。

 ◆迫山第1号古墳(さこやまだいいちごうこふん)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64265.html ---

 県指定史跡 昭和61年(1986年)11月25日指定

 迫山古墳群は、備後国分寺の北西に広がる標高80mの丘陵頂部、東尾根、西尾根の3か所にまとまりが見られ、現在12基の横穴式石室墳が確認されている。
 このうち頂部にある、迫山第1号古墳は直径21.5m、高さ5mの円墳で、墳丘は黒色の土で版築状につき固められており、西側では浅い周溝、石室前面の両側には墳裾を示す数個の石が存在する。埋葬施設は南東に開口する片袖式の横穴式石室で、駅家町の服部川周辺に集中する二子塚古墳などの巨大横穴式石室に匹敵する規模を持っている。
 石室の開口時期は早く、平安時代末頃に撹乱を受けているが、昭和58年(1983年)と昭和61年(1986年)に神辺町教育委員会が発掘調査を行った際に内部から単鳳環頭太刀、刀、鉄鏃、馬具と思われる絞金具、勾玉、管玉、切子玉、棗玉、ガラス小玉、土製練玉、金銅製耳環、須恵器などの遺物が豊富に出土した。
 石室の構造や出土遺物から古墳時代後期末に築造されたものと考えられるが、単鳳環頭大刀や鍔に銀象嵌の文様をもつ刀が出土したこと、石室の規模などから迫山古墳群の盟主的な古墳と考えられており、神辺平野東部地域で勢力圏を獲得しつつ台頭してきた最も有力な首長墓と考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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