2022/12/27(火) 迫山古墳・備後国分寺・清水氏庭園℃U策 <2/8>

 

 

 

 

 

 

 この迫山1号墳≠ゥら更に奥に進む道がありますから、それを進めば、まだ古墳があるのかも分かりませんけど、それはまたの機会に(^-^)
 迫山1号墳の周りを見て廻りましてから、再度、説明板を確認です。
 迫山第1号古墳(広島県史跡)の横穴式石室内から出土しました単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)=B
 柄に8面体の金銅製筒金具、柄頭に楕円形(長径6.0cm、短径4.3cm)の金銅製環頭が装着され、環頭中央に鳳凰、周りに2頭の龍が施されています。県内では3例目の単鳳環頭大刀との事ですけど、説明板の写真は環頭太刀柄頭≠フみ。
 いくら立派な太刀でありましても、保存環境が悪くて「柄頭」のみとは残念ですねぇ〜
 もぅ3年前になりますでしょうか…岡山県真庭市の大谷1号墳≠ノ出掛けた事がありますけど、この古墳からは、大変保存状態のイィ双龍環頭大刀≠ェ出土しています。

 
双龍環頭大刀(そうりゅうかんとうたち)

 柄頭だけでなく鞘の栫も良好に遺存し、全体の形状がよく分かる点で希少な古墳時代の環頭大刀である。
 柄頭、鍔、鞘の飾金具および責金具は金銅製で、鉄製の刀身や鞘木も部分的に残る。柄頭には透かし彫りにより2匹の龍が向かい合わせで玉を食む姿が表され、柄や鞘にはS字形または蕨形のモチーフで飾られる。双龍環頭大刀は、朝鮮半島の新羅などの影響を受けて6世紀に古墳の副葬品として登場し、本品は龍文様の退化などから7世紀にまで製作年代が下ると推定される。
 古墳時代の対外交流をうかがい知る考古資料として非常に重要である。

 ◆大谷1号墳

 定古墳、定北古墳から中津井川を挟んで南西には、定北古墳より少し遅れて7世紀後半に作られたと思われる大谷(オオヤ)1号墳があります。昭和63年(1988)になって発見されました。
 方形3段の墳丘の前面部にだけ更に2段の石段があって、計5段の方墳という全国でも珍しい形式で、定古墳との共通点があります。木棺と陶棺の他、なんと全面に金箔の貼られた双竜環頭太刀や金銅製品など、やはり貴重な出土品が見つかっています。
 被葬者は、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に味方して功績のあった吉備大宰石川王(キビノオオミコトモチイシカワノオオキミ)ではないかといわれており、当地と大和朝廷との深い関わりが推測されています。石川王は鬼ノ城の主とも言われており、日本書紀によると、679年に没した際に天武帝より諸王二位を贈られています。

 この双龍環頭大刀≠眼にしていますから、単鳳環頭大刀≠熾ロ存状態が良ければ、こんな太刀だったのだろぅなぁ〜と、勝手に想像してしまいます(^-^)
 迫山1号墳≠充分拝見しましたので、それではこの辺で下山です。
 落ち葉が結構ありますから、足を滑らせませんよう慎重に下りませんと(^-^)
 登り口近くまで下りて来ますと墓地が…随分古そうな墓石ですけど、いつの時代のお墓なんでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 落ち葉に足を滑らせませんように慎重に下りて来た積もりですけど、下りは、さすがに速いです(^-^)
 アッと言う間に神辺スポーツ広場≠ワで戻って来ました(^.-)☆
 駐車場から迫山古墳&モりに眼を向けますと、雲一つ有りません真っ青な空。2022年も、いよいよ残り少なくなりまして、何だかんだと慌ただしい日々なんですけど、風も無く温かく、絶好の行楽日和でありましたネ。
 それでは、ここからスグ近くの備後国分寺≠ノ立ち寄ってみる事に致します(^-^)//"

 

 

 一直線に延びました参道を山門に向かって進みますと、右側に萩嶋稲荷神社≠ェ有りますので、まずは参詣となりました。
 そして、萩嶋稲荷神社℃辺の景観を何枚かパチリです。
 WEB上で備後国分寺≠検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)//"


 ◆備後國分寺

 --- http://z80bingo.starfree.jp/a-21-kokubunji/a-21-kokubunji.html ---

 国分寺(こくぶんじ)福山市神辺町下御領
 中国四十九薬師霊場第十二番札所
 ご本尊は薬師如来。山号は唐尾山醫王院といい、真言宗大覚寺派に属する。
 天平13年(741)に聖武天皇は全国に国分寺の建立を命じた。それは全国に置かれた国府付近に国分尼寺とセットで建てられていった。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称する。備後では、国府は府中市に置かれ、府中市元町の広谷公民館前駐車場付近一帯が備後国府跡ツジ遺跡と比定され現在も発掘調査が行われている。発掘現場では三つの大規模柱穴発見され、国政を司った国庁建造物跡と考えられている。また備後国総社は近くの小野神社境内に確認されている。

 備後国分寺は昭和47年(1972)から発掘調査が行われ、東西180mの寺域が確認され、法起寺式伽藍配置であったことも判明している。一方、国分尼寺は、ここから西方の小山池に廃寺跡が確認され、国分寺と同じ瓦が出土したためにここが国分尼寺跡ではないかと思われている。
 国分寺本堂は五間社の宝形造に近い寄棟造で、前方一間通りが吹き放たれ、さらに一間の向拝を持つ。角柱上は舟肘木を置く。屋根は桟瓦葺で、降棟の先に稚児棟が造られる。入母屋屋根に本瓦葺の三間一戸山門(仁王門)は古そうである。

 -- 備後の歴史を歩くコミュの国分寺より転記 --

 ◆備後国分寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 備後国分寺(びんごこくぶんじ)は、広島県福山市神辺町大字下御領にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は唐尾山。本尊は薬師如来。
 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備後国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、寺院跡である備後国分寺跡と、備後国分尼寺跡についても解説する。

 ・概要
 広島県東部、神辺平野北縁の堂々川東岸に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺(金光明四天王護国之寺)の法燈を継ぐ寺院で、現在の境内の南に古代の国分寺跡が所在する。西には小山池廃寺跡(推定備後国分尼寺跡)が所在し、両寺の南面には東西に古代山陽道が通るほか、付近では迫山古墳群等の古墳群が分布し、古くから文化的中心地であったことが知られる。中世期には戦乱で焼失し、再建伽藍も江戸時代の堂々川の氾濫で流失するなどの不遇の歴史を経たのち、現在に至っている。
 古代の国分寺跡については1972年度(昭和47年度)以降に発掘調査が実施されており、主要伽藍として金堂・塔・講堂・南門の遺構が検出され、法起寺式伽藍配置であることが確認されている。

 ・歴史

 <古代>
 聖武天皇肖像
 創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃の創建と見られる。
 弘仁11年(820年)の『弘仁式』主税寮の規定では、国分寺料として稲2万束があてられる。また延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上では、国分寺料として稲2万束が規定されている。

 <中世・近世>
 享保元年(1716年)成立の「国分寺来由記」による由緒は次の通り。

 かつては所領100余貫・子院が12を所有。
 永禄4年 (1561年)春に兵火に遭い、神辺城主の杉原盛重が寄付を基に草堂七楹を建立、土地20貫を寄進。
 慶長5年 (1600年)福島正則により寺領を没収。
 延宝元年(1673年)洪水で堂舎倒壊、一堂のみが残存。
 延宝7年 (1679年)水野勝種が網付山の材木を寄進、茅屋七楹を建立。
 元禄5年 (1692年)薬師堂を建立、薬師如来・十二神などを安置。
 (元禄10年(1697年)勝種により倒壊の原因となった堂々川の土砂災害対策が始まる(福山藩の砂留))

 ◇備後国分寺跡
 僧寺跡の寺域のうち南北は未確定であるが、東西は約180メートル(600尺)を測り、東辺では築地塀が確認されている。主要伽藍は金堂を西、塔を東、講堂を北に配する法起寺式伽藍配置である。また寺域南辺において、古代山陽道に面して開く南門(南大門)が検出されている。
 なお、『福山志料』では栗柄廃寺跡(府中市)を備後国分寺とする説を記載するが、現在では同寺は白鳳寺院跡とされる。

 ◇備後国分尼寺跡
 尼寺跡は、僧寺跡から堂々川を挟んで西の小山池廃寺跡(こやまいけはいじあと、福山市神辺町西中条:北緯34度33分49.53秒 東経133度23分15.60秒)に比定される。1976-1978・1997年度(昭和51-53・平成9年度)に発掘調査が実施されている。
 伽藍配置は東に金堂、中央に塔、西に講堂が並ぶ珍しい形式である。白鳳期末期の7世紀後半頃の創建で、平安時代の12世紀頃まで継続したと推定される。備後国分寺と近接し、かつ備後国分寺と共通する瓦が出土することから、白鳳寺院が奈良時代に国分尼寺として再利用されたと推測される。

 

 

 

 

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