2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <9/11>

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、次に、「鞆城跡」に上がってみます。ここには、「鞆の浦 de ART 2022」の作品の展示がありました。
 鞆城跡の広場周辺に存在しますモノをササッとご案内致しますと、


 ◆アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンはドイツを代表する彫刻家のひとり。若干19歳でドクメンタ5(1972)に参加し、翌年のデュッセルドルフ美術館での初個展以降、ドイツやアメリカをはじめ世界各地で活躍。日本では神奈川県葉山町のアトリエを構え、長年にわたって制作拠点としている。
 ルネサンス美術、アルベルト・ジャコメッティやデイビッド・スミスら20世紀の抽象表現、そしてアフリカの原始美術や仏教美術に影響を受けてきたクリスチャン。紙やブロンズによる彫刻、またドローイングは、これらの要素が組み合わさりながら均衡を保っている。


 …と、こんなアーティストのようであります。
 そして、「ふくやまアートプロジェクト実行委員会」をWEB上で検索してみるのですけど、う〜ん、よく分かりません。が、福山市内のアチコチで「ふくやま彫刻プロジェクト」により設置されましたアート作品は見掛けます。
 どぅにか『ふくやまアートプロジェクト実行委員会』に関します記述を見つけますと、こんな記載が…


 福山郵便局前交差点・北西(福山郵便局前)の、山本眞輔《躍動》(1996設置)。ふくやま彫刻プロジェクト。福山市、ふくやまアートプロジェクト実行委員会による設置。福山市とその周辺の市町村で、「ふくやま彫刻プロジェクト」を名乗った野外彫刻をよく見かける(先日行った尾道市御調町にもあったし、井原市でも見かけた)。これは1989年〜1998年ころまで行われた「ふくやまアートプロジェクト」の一環として、福山市や周辺自治体と、ふくやまアートプロジェクト実行委員会が設置したもののようだ。他に展覧会なども開催しているようだが、ネットを検索する限りでは、今ひとつ実態がわからない。図録なども出ているようなので、近々チェックしたいと思っている。

 …と、こんな記載で、ふ〜ん、「ふくやま彫刻プロジェクト」の実態は、よく分かりませんようですネ(^-^)
 それでは、何度も訪れています鞆城跡ですけど、暫し、敷地内を散策です。


 ◆佐藤 徹

 2021.08.30 広島県福山市に生まれる。
 名古屋芸術大学大学院を卒業。

 ・展覧会歴
 日本彫刻会 会員
 愛知県作家団体(石田清発足)創彫会 会員
 鞆の浦deアート運営委員
 広島市中区 三親電材 本店ビル内エントランスに大型作品「誠実・奉仕・躍進」
 福山市 双葉電機本社前にブロンズ作品「喜働」社内にもその他作品展示

 ・社会活動
 日本彫刻展
 創彫会彫刻展
 Metal Works34th
 鞆の浦deアート
 愛知県・東山動植物園
 緑の中の彫刻展
 ルクシアタふくやま


 ところで、佐藤徹san創作の、この『アマビエ』とは何なんでしょうねぇ〜これも、WEB上で検索です。

 ◆アマビエ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 アマビエは、1846年5月(弘化3年4月)に現在の熊本県にあたる肥後国海上に出現したとされる日本の疫病封じの妖怪。海中から光を輝かせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたと伝えられる。
 同種と考えられる存在にアマビコやアリエなどがある。

 ・概要

 江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文とが記されている。肥後国(現・熊本県)の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。また、予言をするだけで、疫病の流行を鎮めるかについては言及がない。
 瓦版に弘化3年4月中旬(1846年)という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く」(原文「づの如く」)とのみ記載されており、文章による具体的な特徴の描写は無い。
 アマビエについての記録の類は、上記1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されているアマビコと呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に湯本豪一によって指摘されている。姿かたちなどは異なるが、予言と除災という内容を持つほぼ同様な性質で描かれた妖怪たちは、ほかに件、白沢、神社姫、海出人、亀女など数多く存在しており、これらも瓦版や写本などの形で残されており、アマビコやアマビエと大同小異の内容の文章がいっしょにつけられている。

 …との事であります。
 「鞆の浦 de ART 2022」の展示作品『アマビエさん忘れない』の付近には、「むろの木」と大伴旅人の歌碑が…


 ◆鞆之浦の 磯の杜松(むろのき)見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも

 読み:とものうらの いそのむろのき みんごとに あいみしいもは わすらえめもや
 447 作者:大伴旅人
 ・現代語訳
 鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、これを一緒に見た妻が忘れられようか 必ず思い出すであろう。
 ・解説と鑑賞
 「めもや」は反語で、「忘れられるだろうか、いいや忘れられやしない」を短く言う時の表現です。

 ◆鞆城跡

 --- 市史跡 1976年7月13日指定 ---

 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「崖上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
 元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則のの後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以降は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。


 …と、こんな説明板も。
 赤い鳥居の神社もありますので向かってみますと、鳥居には『正一位早毛利稲荷神社』の記載。


 ◆早毛利稲荷神社

 この神社は鞆の浦を見下ろす小高い丘の上、歴史民族資料館の建つ鞆城本丸跡に鎮座しています。城跡には鞆城の案内は有ったのですが、この社の案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明です。推測ですが、この地は安土桃山時代に毛利氏の所領となり、鞆の浦には毛利氏の擁護の元、室町幕府15代将軍足利義昭が滞在したこともあり、毛利氏にちなんだ社で、お城の鎮守社だったのではないかと考えています。


 …と、WEB上には、こんな記載がありましたネ(^-^)
 そして、楽聖「宮城道雄先生」の像が。台座の側面には、こんな記載がありました。


 ◆楽聖 宮城道雄先生を讃える

 宮城道雄先生(27年生 昭和31年没 1894-1956)は、鞆町出身、菅國治郎の長男として神戸に生まれた。
 8歳の時失明、志を箏曲の道に立て、二代目中島検校の門に入る。後、韓国の仁川京城を経て東京に居を定め、ひたすら邦楽の神髄を追求して新日本音楽の新境地を確立。演奏作曲の面においても斯道の?奥を極め、その名は広く世界に知られている。
 先生は自らの魂の救いとして「我が故郷は鞆の浦」と、常に父祖の地への想いを馳せておられたと聞く。宮城音楽の不朽の名作「春の海」らは鞆の浦の海の香、潮騒などが表現されているように感じられる。
 文化勲章受章者圓鍔勝三先生制作のこの像は、鞆信用金庫創立60周年記念事業として建立された郷土の誇り宮城道雄先生の偉徳と功績を、とこしえに讃えるものである。

 
-- 平成2年(1990)9月吉日 --

 それでは暫し、鞆城跡から鞆港を眺望です(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、次に、常夜灯のあります鞆の港に向かいます。

 ◆常夜燈

 --- https://tomonoura.life/spot/12679/ 鞆物語 ---

 鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
 南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
 1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。

 ・“海上闇夜東西を失いし時”の燈台―海上安全のために
 竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。
 1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。
 ◇石額の文字―金毘羅さんも祇園さんも海上安全の神様なんです

 ・江戸時代の港湾施設5点セットの現存は奇跡的
 江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。
 ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
 ◇威風堂々、常夜燈のある景観―これぞ鞆の浦

 ・鞆の浦にはもうひとつ常夜燈があった!?
 現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。
 ◇この湾を東西から挟むようにふたつの常夜燈が…ロマンですね

 
「いろは丸展示館」前には、さすがに観光客が多いようでしたネ。

 ◆いろは丸展示館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 いろは丸展示館(いろはまるてんじかん)は、広島県福山市鞆町にある、備後灘で1867年5月26日に起こったいろは丸と明光丸の衝突事件の概要を展示する博物館である。1989年(平成元年)7月に開設された。

 ・概要
 展示館は鞆の浦のシンボル「とうろどう」(常夜灯)のすぐ手前に位置する、「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の土蔵(国の登録有形文化財)を利用している。
 同館では、慶応3年(1867年)に備後灘で沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などの関連資料を、沈没状況のジオラマとともに展示、紹介している。
 2階には坂本龍馬の隠れ部屋が再現されていて、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形が置かれている。
 地元の鞆酒造株式会社が運営している。

 ・展示内容
 沈没状況のジオラマ - 海底20mに眠るいろは丸の一部を原寸の70%で再現 壁面のイラスト、ジオラマの造形は高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作。
 いろは丸より引き揚げられた陶器や部品
 坂本龍馬の隠れ部屋ジオラマ(現実に滞在した邸宅の桝屋清右衛門宅も福山市鞆支所隣に現存し、公開されている。)手に万国航法を持ち鎮座するは、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形

 ◆鞆の港

 --- 福山市鞆町 ---

 瀬戸内の中央に位置する鞆は内海の潮の干満の分岐線にあたります。
 内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法であったので「潮待ち」をここでおこないました。こうしたことが多くの伝説を生み、万葉集に歌われることとなり、中世から近世にかけて歴史上の舞台として度々登場してきたゆえんであるといわれています。
 この船着場の雁木は文化八年(1811年)に、常夜灯は(安政六年<1859年 再建>)に造られたもので、いずれも花崗岩製です。
 なお、船着場に臨む建物は背後の保命酒問屋旧中村家(県史跡鞆七卿落遺跡)に関連するものです。
 明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により「潮待ち」をする船もなくなってしまいましたが、今日でも、当時の港の活況を彷彿させる港湾施設がよく残っています。
 沖に突出する波止・常夜灯・雁木とよばれる階段状の船着場・港に面している豪商、廻船問屋とその土蔵等々、江戸時代の港町鞆の繁栄ぶりを示すものである。

 --- 2015年(平成27年)3月 福山市教育委員会 ---

 ◆太田家住宅・太田家住宅朝宗亭 鞆七卿落遺跡

 ・重要文化財 平成3年5月31日指定
 ・県史跡 昭和15年2月23日指定


 維新の夜明けも近い1863年(文久3年)8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら七人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は、保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残しました。主屋の太田家住宅と向いの別邸「朝宗亭」は、18世紀中頃〜19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財に指定されています。
 『世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しの世や』

 建物の2階軒先には「杉玉」が…別名 酒林(さかばやし)と呼ばれています。造り酒屋で新酒が醸造されると、緑の生き生きとした杉の葉で杉玉を造り、軒先に吊り下げて、新酒ができた事を知らせていたとの事です。

 ◆杉玉

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる。「搾りを始めました」という意味である。

 ・概要

 <発祥>
 奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社の文化だったといわれる。大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきたが、その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。大神神社がある三輪山周辺にはスギが多く自生し、三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたとされている。本来は三輪山のスギで作られた杉玉を飾ることが習わしだったが、現在では各地の酒蔵が独自に製造したり、業者に依頼して作っていることが多い。

 <意味>
 杉玉はおおむね2月〜3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月〜6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏〜夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。

 今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。
 俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。
 スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。

 …と、こんな「杉玉」であります。
 残念ながらGONsanは、吊るされたばかりの、まだ蒼々としている杉玉は眼にした事はありませんネ(^-^;
 それでは、鞆の港を眺めながら雁木沿いに進み、次は、「円福寺」に向かってみます事に(^-^)//"

 

 

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