2022/10/9(日) 「鞆の浦 de ART 2022」開催中の鞆の町を散策 <7/11>

 

 

 

 

 

 

 

 後山山荘とお別れしますと、次は「医王寺」に向かいます。医王寺には、10名ばかりのクループの先客が…
 医王寺境内からは、眼下に、鞆の港・常夜灯・圓福寺・仙酔島・玉津島…等が眺望出来まして、実にイィ景観であります(^-^)//"


 ◆医王寺(いおうじ)

 平安時代、弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺。後山の中腹に建つことから、眺望の良さでも有名です。
 境内からの眺めはもちろん、裏山の中腹にある「太子殿」からは、鞆の町と瀬戸内の景観を一望することができます。
 本尊である木造薬師如来像は、県の重要文化財に指定されています。

 ◆医王寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12669/ 鞆物語 ---

 坂道や階段をえっちら上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺・医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師・空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。1826年には、オランダ商館の医師シーボルトもツツジや松の観察のために、この小径を登ったのでしょうね。

 ・オリンピックよりも珍しい、6年に一度のご本尊のご開帳
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。これは広島県の重要文化財にも指定されています。6年に一度しかご開帳されない、ありがたいご本尊です。
 山門には二体の金剛力士像が。 なんとなく愛嬌を感じるお仁王さまが出迎えてくれます。
 ◇山門のお仁王さま―ね、愛嬌あるでしょ?

 ・「太子殿」への583段のハイキング
 医王寺の境内からさらに上を目指してハイキング。長い長い階段を登っていくと、「583」と刻まれた階段が。その最後の階段を踏みしめて、ついに「太子殿」に到着!ハイキングのごほうびは、鞆の浦を一望できる最高の眺めです。
 (注)夏場は水分補給に気をつけて、笑。
 ◇階段を上った先には「太子殿」―最高の眺めをプレゼント

 

 

 境内には、大伴旅人の歌碑が…
 『磯の上に根這う むろの木見し人を いつらと問はは 語り告げむか』

 ◆磯の上(うへ)に根這(ねは)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 --- http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_448.html ---

 -- 巻三(四四八) --
 磯の上に根を這わすむろの木に、かつて見た人は何処に居るかと問えば語って教えてくれるだろうか。

 この歌も巻三(四四六)や巻三(四四七)の歌と同じく、大伴旅人(おほとものたびと)が、大宰師(大宰府の長官)としての三年近い任期を終えて奈良へ戻るときに詠んだ五首のうちの一首で、大宰府で亡くなった妻を偲ぶ歌。
 かつて共に妻が見たむろの木に、「あの時一緒におまえを見た妻はいま何処に居るかと問えば、語って教えてくれるだろうか。」と問い掛けているわけですが、これは見事な根を這わせ、人間よりも長く存在しているむろの木ならば、死んだ人間の行先も知っているだろうかとの意味が込められているのでしょう。
 旅人が大宰府に居る間に山上憶良たちと作り上げた筑紫歌壇といわれる新風は、歌の世界に広がりをもたらすと同時に、反面で後の世の歌につながる固定された美意識や世界感を生み出す一歩ともなったのですが、旅人自身の心の中にはまだまだ古来からつづく万葉人らしい神霊崇拝的な精神が深く残っていたようですね。
 この歌でも、「妻の魂の居場所が分かるならたとえあの世にだって今すぐにでも逢いにゆきたい」との、そんな旅人の切ない願いがひしひしと感じられる一首になっているように思います。
 (まあ、もっとも、その旅人の願いはそう遠くない未来に旅人の死によって叶うことにもなるのですが…)


 この歌碑の左側には、こんな説明板がありました。

 ◆大伴旅人
 「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首 万葉集巻三-四四八番歌


 天平二年(730)十二月、太宰府の長官だった大伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
 「磯の上にしっかり根を張って立つむろの木よ。太宰府へ下る時、私は妻や息子といっしょにお前を見たのだ。しかし、その妻はもうこの世にはいない。私の愛する妻が今どこにいるのか尋ねたら、お前は私に教えてくれるだろうか。」
 こう、むろの木に問いかける旅人は、神亀五年(728)の初め太宰府に下ったが、まもなく妻を亡くし悲嘆にくれた。一方、奈良の都では、翌神亀六年二月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
 子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した旅人は、翌天平三年(731)七月、萩の花を気にかけながら、静かに六十七年の生涯を閉じた。

 
-- 2010年4月27日 鞆の浦ロータリークラブ創立四十周年記念 --

 境内には、医王寺の説明板もありましたネ。

 ◆医王寺

 桃林山慈眼医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。
 本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。
 慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。
 ここから15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダ商館長の随行医師シーボルトはツツジやなどの観察のためにこの小径を登り、植物・昆虫を採取しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<1/11-2/11-3/11-4/11-5/11-6/11-7/11-8/11-9/11-10/11-11/11>
← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →