皇居外苑   <8/9>

 東 御苑

 皇居外苑は皇居の東地区にあたり、旧江戸城の本丸及び、二の丸を中心とした地域で、面積は約21万平方bある。

 江戸城の旧地は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて江戸氏が館を構えていた。江戸氏退転後、長禄元年(1457)、太田道灌は約1年を費し居城を築 き、文明18年(1486)までの30年間住んでいたが、この時の江戸城の規模や形態についてはよくわかっていない。その場所は旧本丸あたりと伝えられて いる。

 その後、上杉氏(39年間)、北条氏(67年間)がここを領有したが、天正18年(1590)徳川家康が入城し、慶長8年(1603)幕府を開いた。家 康の入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸、二の丸、三の丸の区域であった、構えも小さく濠も狭かった。
 明治元年(1868)皇居となるまで徳川の居城であった。江戸城は、徳川の入国後、家康、家光の三代にわたってしだいに拡大強化され、寛永13年 (1636)外郭の城門を完成させてわが国最大の城郭となった。

 この東御苑は、昭和35年1月29日の閣議決定により皇居の付属庭園として整備し、宮中行事に支障のない限り原則として公開することになった。

 そして昭和36年から工事に着手し、雑多な建物を撤去し、三の丸の一部の公用地区に主馬班の庁舎、厩舎、馬車舎、馬場や宮内庁病院などを新築 し、さらに二の丸を完成し、大手門渡櫓の復元と富士見櫓、富士見多聞、大番所、百人番所、同心番所の修理を行い諸施設を建造して、いまみられるような庭園 はできたのである。

  

(中) こんな真っ昼間からベンチで気持ちよく眠っておられますサラリーマン風の男性が…
(右) この辺りに“松の大廊下”が存在しましたのですねぇ〜“松の大廊下跡”の標識です(^.-)☆


  

(右) 大番所です

  

(左) “大番所”の表示板です

  

(中) (右)百人番所です(^.-)☆

  

  
 大 手門

 旧江戸城の正門であって、大名や役人が本丸に登下城する門。最も警備の厳重な典型的な枡形門で、外側に面してた門を第一の門(高麗門)、内側の門を第二 の門(渡櫓門)という。出入り口が広くないのは敵の侵入を防ぐためです。壁は白亜総漆喰塗り、城門は燻(ふすべ)と言う銅を熱処理したものが張ってある。 また、門外の堀端に下馬札がたっていた。付き人達はここで主人の帰りを待っていて、各藩の情報を交換していた。これより下馬評と言う言葉が生まれた。

 慶長11年(1606)藤堂高虎の縄張である。慶長11年3月から同12年12月で、天守閣、大手門完成というから1年と9ヶ月で完成したことになる。 さらに元和6年(1620))の江戸城修築に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式の城門となったものといわれている。大手門の警 備は、鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2、譜代10万石以上の大名がこれを勤めたという。

 大手門は明暦3年(1657)1月の江戸大火で類焼し、翌万治元年11月に再建された。その後、元禄16年(1703)11月と安政2年(1855) 10月の江戸大地震で被害を受け、その度に修理されて明治に及んだ。
  

(左) 大手門です(^.-)☆

  

(右) 桜田二重櫓です(^.-)☆

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