高
城神社
眼鏡橋の諫早公園内の高城神社です。神社は明治15年(1882年)旧領主諫早家の祖先、龍造寺家晴を祭神として創建されたもので、市内では比較的新し
い
神社。
境内には、戦後復員局の出先機関「長崎地方世話部」の碑も残っている。碑文によれば昭和20年12月1日から5年間この復員業務にあたったそうだ。ま
た、正殿左側には、郷土の先人「若杉春后」の霊神が祭られている。
旭ヶ
岡公園(佐賀県・鹿島市)
旭ヶ岡公園はもとの鹿島城趾にある。
はじめ鹿島城は北鹿島常広にあったが度重なる洪水のため文化年間にこの地に移された。しかし明治7年の佐賀の乱の際に官軍の侵攻を恐れ鹿島城を炎上させ
たために主要な建物は焼失した。このとき赤門と大手門は類焼をまぬがれ今も残っており、ともに県重要文化財となっている。
赤門は現在県立鹿島高等学校の正門となっている。
この公園は桜の名所で神野公園(佐賀市)、
小城公園(小城町)とならんで県下三大桜名所と言われている。桜は公称600本といわれているが、この近辺で一番本数が多い感じがする。一目5,000本
とも言われている。
鍋
島直彬公
佐賀藩の鍋島家は竜造寺家からの簒奪の実行支配を強めるために、いわゆる三支藩と呼ばれる、小城、蓮池、鹿島の三つの支藩を創設し、竜造寺一門のウェイ
トを相対的に弱め、名誉職的な家臣団に組みこむ。
鍋島忠茂は藩祖鍋島直茂の二男で、佐賀初代藩主鍋島勝茂の弟であったが、兄勝茂は直茂と相談し、忠茂に鹿島2万石を分知し、鹿島藩が成立する。
子の鍋島正茂に継ぐのだが、正茂は叔父の勝茂から、勝茂の五男鍋島直朝を養子とするよう強要され、まだ実子ができるかもしれない、と反発。
しかし勝茂はこれを強行し、直朝を養子として送り込む。正茂は弟の茂久を養子にしようと画策し、勝茂は正茂に隠居を迫るなど、確執は極限化。
結局鍋島正茂は鹿島の領地を捨て、父忠茂の領地の一部であった下総の5千石を領し、旗本となる。
表面的には、養子の鍋島直朝が鹿島藩を継ぐわけだが、このような経緯で、正茂までの鹿島藩と直朝からの鹿島藩は別物という感じもある。
佐賀藩の三支藩は分知だが、本藩の石高は変更しておらず、35万余石のまま。従って、小城、蓮池、鹿島の三支藩は佐賀藩の内高であり、本来ならば、陪臣
だが、参勤も行うようになり、大名として扱われるようになった。
鍋島直彬公は鍋島直永の長男であり、第11代藩主である。
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(右)諫早公園内に存在します高城神社です
(右)
諫早公園から諫早駅に戻ります帰路、本明川に架かります四面橋付近の景観です(^.-)☆
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本明川・四面橋付近で (中)(右)佐賀県鹿島市・旭ヶ岡公園内の“松陰神社”です
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(中)佐賀県鹿島市・旭ヶ岡公園内の“松陰神社”です (右)松陰神社そばの庭園の景観です
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第11代藩主・鍋島直彬公の像です