諫
早公園と高城
上山公園(諫早公園)は「都市公園100選」に選ばれており、また、上山公園は「森林浴の森100選」にも選ばれています。
諫早公園は高城(たかしろ)城址)(じょうし)で、暖地性の常緑樹が多く、頂上広場には樹齢700〜800年の大きなクスノキがあります。高城城址は城
山ともいわれ、城山暖地性樹叢(じゅそう)は国の天然記念物になっています。
諫早公園には国の重要文化財に指定されている眼鏡橋があります。
天保10年(1839)、本明川に当時日本一の大石橋が架けられました。昭和32年(1957)の大水害で、あまりにも頑丈な橋のために流木が詰まり、
かえって被害が大きくなりました。昭和36年(1961)、諫早公園に移築復元されました。
諫早公園には多くの種類のツツジが植えられており、4月中旬〜下旬には見物客で賑わいます。ツツジは諫早市の市の花になっています。
高城は、西郷尚善(ひさよし)が1470年代に伊佐早(諫早)を平定し、初めてここに築いた城です。その後、島原半島の有馬氏の勢力が強くなり、有馬晴
純(はるずみ)の弟の純久(すみひさ)が西郷尚善の養子となって、有馬氏の傘下に組込まれました。(晴純の二男は純忠で有馬から大村へ養子になっていま
す。)
その後、肥前では龍造寺隆信の勢力が強くなりましたが、天正12年(1584)、有馬と島津の連合軍との島原の沖田畷(おきたなわて)の戦いで、隆信は
戦死しました。この合戦の後、龍造寺一門は隆信の義弟の鍋島直茂に国政を一任します。
天正15年(1587)、西郷氏は豊臣秀吉の島津征討に参陣せず、龍造寺家晴が伊佐早の領主となりました。
慶長5年(1600)、関が原の戦いでは鍋島氏は西軍につきましたが、その後、柳川城主の立花氏を攻め領土は安堵されました。
龍造寺家晴の子の直孝(なおのり)の時、姓を龍造寺から諫早へ、地名も伊佐早から諫早へ改めました。佐賀藩の領主が龍造寺から鍋島になり、龍造寺の本家
も分家も全て龍造寺姓からその土地の名や鍋島姓に改めています。
諫早は一時は独立した藩でしたが、主に財政的な理由により佐賀藩に従属し佐賀藩諫早領となりました。
池
松林一
諫早市の水道は昭和2年4月に事業創設の認可を受けて、昭和4年4月に一部給水を開始し、昭和5年3月に完成しました。それまでは、大川や倉屋敷川などの
川水を、水のきれいな早朝に汲みあげて利用するという状況であり、伝染病の流行に苦しむことが多かったため、明治45年当時の高橋正臣町長は水道布設の急
務を認め、その計画に着手しましたが、実施までは達せず、次いで大正9年に再び画策しましたが、補助金その他の関係で延期のやむなきに至っております。
高橋町長は、任期満了後も池松林一町長のもとで水道委員の一人として計画に参画し、町当局は九州帝国大学教授の君島博士の指導のもとに準備を進め、大正
11年5月町議会の議決を経て水道布設の認可を申請しましたが、これも補助金の見込みがたたなく、そのうえ町村合併のこともあって、一時中止せざるをえま
せんでした。
その後、池松林一町長は欧米視察によって、ますます水道布設を必要とする信念を強めて、さらに準備を進め大正14年に予算算25万円を計上するところと
なり、新諫早町議会は大正15年9月にこれを可決しました。この時の計画は、佐賀市の水道課長横尾弘貞氏の案によるもので、輪内名清仙寺(現泉取水場)に
水源を選定し、金谷久保の高台に築造した配水池に揚水するというものでした。
これにより長期間の準備時代に終止符を打って、昭和2年5月、工事に着手し昭和4年4月20日に主要工事が完了し、町では同月27日に盛大な落成式を挙
行して一部給水を開始しています。
以上のような経過をたどった諫早市の水道も、その後は時代の推移とともに拡張に次ぐ拡張で、計画目標年次を平成17年とした第9次拡張事業(5回変更)
をなすまでに至りました。計画給水人口82,900人、計画給水量36,800m3と飛躍的に発展し、これと合わせて周辺部には簡易水道6ヶ所を経営し現
在に至っています。
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諫早公園内の眼鏡橋です(^.-)☆
(左)
(中)諫早市の水道事業に尽力されました“池松林一”sanの像です (右)眼鏡橋です
(左)
高城神社です (中)(右)島原鉄道の操業に向け尽力されました“木下吉之丞”sanの像です
(左)
(中)この“古賀篤介”sanが何者なのかはよく分かりません(^-^;
(左)
樹齢700〜800年の大きなクスノキです(^_^)v