霊
丘神社
長崎県島原市弁天町に鎮座し現在霊丘神社と称するが、島原城主の高力氏が
勧請したのに始まると伝えられる。高力氏は徳川譜代の家臣で、清長は家康公に従い、天正18年(1590)武蔵岩槻城主となり二万石を領した。清長の孫忠
房は、寛永15年(1638)に松倉氏改易の後を受けて島原城主となり四万石を領し、島原乱で荒廃した社寺を復興し、他領から百姓を招き入れて農村の再建
にも努力している。東照宮の勧請も民心の安定を願ってのこと、と言われている。
明暦元年、隆長がその後を継だが、圧政と矯奢を咎められ、寛文八年
(1668)に領地を没収された。その後を受けて松平忠房が入部し、以後歴代藩主が崇敬を捧げた。
この一族は松平宗家三代の信光の孫忠定を始祖とする深溝松平氏で、藩
祖忠利が慶長六年に三河深溝に新知一万石を与えられ、同十七年に三河吉田に移った。寛永九年に二代忠房が家督を継ぎ、丹波福知山を経て寛文九年に島原六万
五千九百石を賜った。その後、寛延三年には下野宇都宮に転じたが、安永三年再び島原に戻り、明治に及んでいる。
現在の社地は霊丘公園のなかにある。古くは権現山と称し、海岸伝いに
しか行けなかったが寛政四年(1792)の眉山の崩壊によって埋め立てられ、現在の地形となった。
明治十六年、社殿を新築して始祖忠定以下六柱を合祀し、社名を霊丘神
社と改称した。
--- 観光パンフレットより ---
鯉
の泳ぐまち
島原は古くから水の都といわれていますが、中でも新町一帯は特に湧き水が豊富で、地面を50aも掘ると湧き水が出てくるほどです。昭和
53年、地域の町内
会が中心となって、子供たちの感性をはぐくみ、豊かな湧き水を後世に残し、また観光に活かそうという趣旨のもと、町内の清流に錦鯉を放流しました。
「鯉の泳ぐまち」は地域住民の方々によって美しくたもたれ、紅白、三色、黄金等大小1,500匹の錦鯉が清冽な流れの中で泳ぐさまは水の都島原のみどこ
ろの一
つとなっています。
(右)
“弁
天山 理性院 大師堂”…よくは分かりませんけど、弘法大師sanを祀ってあるのかも…
(右)
宿泊しました島原鉄道“島鉄本社前駅”近くのホテルです
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宿泊ホテルのすぐ近くには“霊丘神社”が存在しましたから、ここにも立ち寄りでした(^.-)☆
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霊丘神社の散策後、またまた江東寺に向かいましたが、その際に撮りました景観です(^.-)☆
(左)
島原市内の公園を撮りました (右)ねはん像です