板
倉 重昌
板倉勝重の三男(次男とも)。1603年から徳川家康の近習と
なる。1605年に内膳正に任ぜられる。1609年に千石を賜わり、松平正綱・秋元泰朝とともに近習出頭頭となる。1614年には1,200石を加増され
た。
大坂冬の陣では和議交渉の軍使となって、大坂城に入り、豊臣秀頼の誓紙を
受け取っている。
軍使として選ばれたのは、豊臣家が木村重成という若者を送ってきたので、「徳川家にも有望な若者がいるぞ」というのを見せつけるために送ったと言われて
いる。夏の陣では天王寺口を守っている。1624年に父の遺領の分給され、三河深溝1万9千石の領主となった。
1637年に九州で島原の乱が起こると、徳川家光の命
で追討使に任
ぜられる。
1637年12月6日、松倉藩を先頭に出撃し、肥前の有馬村で鍋島勝茂・細川忠利などの九州の藩と集結。重昌は3万もの大軍で一揆勢の篭る原城を囲ん
で、陣地の構築を始め、完成するまで攻撃を命じなかった(が一部が勝手に攻撃し、被害が出ている)。
19日に構築が取り合えず終わり、立花忠茂・有馬豊氏などが加わったので、総攻撃を命じたが、一揆勢の抵抗は思いのほか激しく、徳川軍は数百人の死者を
出す大敗北を喫した。
この頃、松平信綱が上使として江戸を立ち九州に向かっていた。
これを聞いた徳川軍の兵士達は、「重昌がなかなか攻め落とせないので、派遣されたのだ」と噂し始めた。実際はまったく関係がなかったのだが、これを知った
重昌は焦り、冷静さを失った。
そのため彼は、諸将に持久策を命じていたにも関わらず、なんとして
も城を落とさなければならないと考え始めた。そこで正月なら敵も油断しているだろうと勝手に思い込み、全軍に対して総攻撃を命令。徳川軍の兵士達はいきな
り変更された命令に唖然としながらも、全力で城を攻撃したが、一揆勢は万全の態勢で待ち構えており、なんら状況は変わらなかった。それを見た重昌は陣頭に
立ち指揮したが、胸に銃弾を浴び絶命してしまった。享年51歳。
(右)
江東寺からの帰路“弁天山 理性院 大師堂”の表示板に眼が向きまして立ち寄ってみました(^.-)☆