島
原城
1616(元和2)年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして島原城を築きました。
城は昔「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名を森岳城とも言います。
南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所ありました。内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を
設け、その北に藩主の居館である三の丸が続きます。本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪
壮堅固な城構えでありました。
城は松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・松平氏と4氏19代253年間の居城でしたが、1874(明治7)年に廃城となり、民間に払い下げられました。
以来、文字通りの荒城となっていましたが、1964(昭和39)年に天守閣が復元されたのをはじめ櫓も復元され、次第に昔の面影がよみがえっています。
現在、城内の建物はキリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)、民具資料館(丑寅の櫓)などに利用されています。なかでもキリシタン史料館
は、有名なキリシタン大名有馬晴信(ドン・プロタシオ)時代に盛んであった南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代と続き、島原の乱関連の資料を
展示しています。
島
原の子守唄
明治の中頃、島原半島や天草の農家の人たちは大変貧しく、自分の娘を売らなければ生活していけないほどであったといわれています。遠く中国や東南アジア
各地へ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」といいますが、島原の子守唄は貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たち(からゆきさん)の悲しみ、
哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれます。
昭和28年、保存会が結成され九州一円の様々な催事で唄や踊りを披露、島原のPRに努めました。昭和32年、島倉千代子さんの歌でレコード化され、さら
にペギー葉山さん、森繁久弥さんの歌声でも紹介されました。
武
家屋敷跡
島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居
であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
島原城が竣工した1624(寛永元)年ごろ、藩主松倉氏は知行四万石で、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、1669(寛文9)年松平忠
房が知行七万石で入封してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られま
した。
徒士たちの平常の勤務は、各役所の物書(書記)、各村々の代官、検察や警察、城門の警備などでしたが、1868(明治元)年の「戊辰戦争」には260人ほ
どの徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣、4人が戦死するという戦歴も残しています。
一屋敷は三畝(90坪・約300u)ずつに区切られ、住居は25坪ほどの藁葺き、屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果
物は自給できるようになっていました。また屋根の葺き替えに使う真竹の藪を持った家もありました。
南北に通じる各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、この当時、水源は主に2`ほど北にある杉山権現熊野神社の豊かな
湧き水
を引いたものでした。藩主松平氏は三河国の深溝(愛知県幸田町)の出身で、家臣団も多くが三河者であったため、独特な「鉄砲町言葉」が使われていました
が、現在で
はほとんど聞かれなくなってしまいました。
上新丁には後に元老院議官となった丸山作楽が、文久年代(1861頃)に青少年に国学を講じ、国事を論じた私塾「神習処」の跡が残っています。