普賢岳の溶岩は粘度が高く、流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成しました。この溶岩ドームが崩壊する際に起こったのが火
砕流です。最初の火砕流は、最初の溶岩ドームが現れた平成3年5月20日の4日後に発生しました。
火砕流は、高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが高温の火山ガスとともに山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速100kmを越えることもあります。ま
た、極めて高温なため火山の噴火現象の中でももっとも危険なもののひとつです。
200
年前の大災害
「火砕流」という言葉を一躍有名にした今回の普賢岳噴火災害、しかし島原市はこれに上回る大災害を過去に被っていたのです。今から約200年前の寛政4
年(1792年)に起きた「島原大変」がこれで、我が国火山災害史上最大の稀にみる悲劇でした。
眉
山大崩壊
この時は、まず体に感じる地震が続き、さらに普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られました。激しい地震の連続に、城下の人たちは不
安な日々を暮らしましたが、次第に収まりかけたかにみえた寛政4年旧暦4月1日(西暦5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって、城下町の背後に
そびえる眉山が突如崩壊、3億立方メートルを超える土砂が人家や田畑を埋め尽くすとともに、有明海へ向かって崩れ落ちました。
ね
はん像
江東寺の境内に小高い丘があって、ここを豊後山と呼んでいます。
昭和32年、島原城を築いた松倉重政、島原の乱の際、原城総攻撃で戦死した幕府軍の総帥である板倉重昌を追善しようとのことから、この地に説法ねはん像
が建立されました。
大きさにして全身8.6b、高さ2.12bあります。「ねはん」とは、煩悩の火を焼きつくして智恵が完成した悟りの境地を指す言葉でありますがろ、釈迦
の入滅を表現する言葉としても用いられています。このねはん像は、釈迦が故郷に近いクシナーラの沙羅双樹の下で臨終の間際まで弟子たちに懇切な説法を続け
ている姿を模したものです。足の裏には、大法輪の相(仏足石)が刻まれ、頭部には、信者による写経一万巻が納められています。
平
成新山
平成3年5月20日初めての溶岩ドームが出現して以来、実に13の溶岩ドームが誕生しました。ドームは成長とともに幾度かの崩落を繰り返し、その崩落の
際に引き起こされたのが火砕流で、尊い人命がたくさん奪われました。しかし現在、噴火活動はようやく収まり溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部とな
りました。
島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長
く続いた災害と新たな復興の記念としました。
平成新山の標高は、平成7年6月の1,488bをピークに、現在はやや縮小して1,486b(平成8年8月現在)です。それでも普賢岳の1,359bを
抜いて雲仙岳の最高峰です。平成新山は、火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方b、実に東京ドーム84杯分の熱い岩の固ま
りが出現したことになります。噴火活動は終息しましたが、平成新山の内部はいまだに高温を保っています。