名古屋市名城 公園・熱田神宮・大須観音西春日井郡清洲 城 <3/10>


  



  

  
 清 洲城

 織田信長、その父信秀の城として有名。清洲城は、1405(応 永12)年に尾張の守護、斯波義重が築いたのが、そのはじまり。

 斯波義敏のときの内紛で織田氏が入城、それからしばらくして、一族の織田信秀が居城した。信秀が古渡城に本拠を移すと、かわって織田信友が入る。 1555(弘治元)年になり、信長は叔父信光と謀り、守護代織田信友を殺害。信長は清洲城を奪回すると、ここ清洲城を本拠地とする。それから約10年後、 信長はこの城から桶狭間の戦いに出陣していった。

 
信長が倒れるのは、1582(天正10)年の本能寺 の変。その家督相続を決める会議が、この清洲城で開かれた。世に言う「清洲会議」の舞台である。秀吉の推した三法師が家督を継ぎ安土城へ。そして清洲城に は、その補佐役の織田信雄が入城することになる。しかし、信雄は小牧・長久手の戦い以降、秀吉によって追われることになり、その後の清洲城主は福島正則・ 松平忠吉・徳川義直へと代わっていく。1607(慶長12)年、徳川義直は名古屋城を新しく築き、清洲城は200年あまりの命を終えた。廃材や石垣などは名古屋城 に転用されたと言われているが、中でも名古屋城の清洲 櫓は、清洲城の天守を移築したものと言い伝えられている。

 
現在、本丸土塁の一部のみ残り、開発の犠牲で大部分 は存在しない。平成2年に復興天守が建てられ、内部は資料館になっている。また、平成9年には近郊から石垣が出土し、その技術の変貌が明らかになりつつあ る。岐阜県の崇福寺には清洲城のものと言われている鯱が、ひっそりと残っている。


  

  

  

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