名古屋市“名城
公園・熱田神宮・大須観音”西春日井郡“清洲
城” <2/10> |
清
洲公園
当初、大正11年に開園し、その後、公園東側の五条川改修事業にあ
わせ、公園整備が行われ平成11年4月に新生「清洲公園」が誕生しました。
散策コースの園路や芝生広場が整備され、色々な種類の桜が植え
られ、花見の時期は最高です。
四季を通して、ご家族で、友達同士で、憩いの場として自然を満
喫できます。
この公園の中央あたりには、永禄3年、桶狭間に出陣する織田信
長公(26歳)の姿を模した銅像が昭和11年に建立され、「いざ 出陣!」と今も桶狭間の方向を見据えています。
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清洲公園内の景観です(^.-)☆
(右)
“織田信長公を祀るお社”の表示板がありました
(中)
(右)清洲公園の向こうに清洲城が
清洲城
清洲城は室町幕府の官僚で尾張・遠江・越前の守護であった斯波
義重により建てられた。その後、織田大和守が守護代となって居城したが、ついで家臣織田信秀が斯波家三奉行の一つ、清洲奉行として居城した。
信秀が古渡城に移ると織田信友が入城したが、弘治五
年(1555)織田信長が信友を攻め清洲を奪い那古野
城から移って城を大改修した。約十年間居城した後、小
牧山城に移ると番城となった。
天正十年(1582)信長が京都本能寺で倒れると、
清州で清洲会議が開かれ信長の後継として三法師が選ば
れ、叔父の織田信雄が後見補佐役として清洲城に入っ
た。この時、五条川の流れを利用して拡張し、二童の堀をめぐらし大天守・小天守・書院等を造営した。
天正十八年、織田信雄が秀吉によって除封されると、
近江八播城の支城として城番を置いた。文禄四年(1595)福島正則が二十万石、関ケ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると四男の松平忠吉が四十二万石、慶長十二年(1607)には九男の徳川義直が四十七万石で入封したが、慶長十五年(1610)名古屋城を築いて移ると清洲城は廃城となった。
(右)
石垣:戦国時代の石垣は、加工をしない大小の自然石を自由に積みました。粗々しい感じを受けますが非常に堅固なものです。
このような積み方を“野面積み(のづらつみ)”と言います(^_^)
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