埼玉県 川越市 <3/9> |
東明寺(稲荷山称名院東明寺)
東明寺は、時宗(一遍上人)が13世紀に開山したといわれています。(本尊は虚空蔵菩薩)
この地は古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在しており、東明寺はこうした土豪の一人河越氏の庄園の東端に連なる広大な境内を有していました。天文15年(1546年)4月に戦われた上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われました。
現在、川越夜戦跡として市指定史跡になっている。
川越夜戦
北条軍に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、これを奪還するため連合軍8万の兵で城を包囲し城兵を苦戦に追い込みますが、北条氏康の援軍8千が夜陰に乗じて猛攻撃を加え、東明寺口を中心に激しい市街戦となり、朝定討ち死にとともに上杉軍は敗走しました。
10倍近い敵を撃滅したこの夜戦(1546年)は日本3大夜戦の1つにも数えられ、戦略としても有名です。天正18年(1590)7月、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏も関東から姿を消し翌8月1日、変わって入部した徳川家康が、江戸北西の守りとして川越を重要視し、酒井重忠を城主に据えました。
(右)大沢家住宅(国指定重要文化財):寛政4年(1792)の建築で、
間口が広く関東地方の町屋としても大変古い例に属し、国の重要文化財に指定されています。
(中)(右)広済寺です
■川越夜戦跡の石碑
--- 埼玉県川越市志多町 時宗・稲荷山称名院 東明寺境内 ---
川越夜戦は、戦国時代の1545〜1546(天文14〜15)武蔵国河越(現在の埼玉県川越市)で行われた後北条氏と上杉氏の合戦(かっせん)です。
「河越(川越)の戦い」・「河越(川越)の夜討(ようち)」とも呼ばれています。
1537(天文6)扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定(ともさだ)(1525〜1546)は北条氏綱(うじつな)(1486〜1541)・氏康(うじやす)(1515〜1571)父子に本拠(ほんきょ)河越城を攻め落とされ、松山城に退きます。1541(天文10)氏綱が没したので、扇谷上杉朝政(ともまさ)が攻めましたが敗退しています。
勢力の回復をはかる朝定は山内上杉憲政(のりまさ)(1523〜1579)(関東管領(かんとうかんれい))・足利晴氏(はるうじ)(?〜1560)(古河公方(こがくぼう))の援けを得て、1545(天文14.10)福島綱成(北条綱成)(つなしげ)(1515〜1587)が守る3千の河越城を総勢8万余騎の大軍で包囲します。
翌年春、氏康が今川氏親と争っているのに乗じて朝定ら上杉・足利の連合軍は兵糧(ひょうろう)の尽きた落城寸前の川越城を攻めます。氏康は8千騎を率(ひき)いて援軍に駆けつけ、4月20日夜陰(やいん)に乗じて襲撃し、城兵も降参を装って夜襲しました。
多勢をたよりに油断していた上杉・足利の連合軍は敗走、混乱の中で朝定は戦死して扇谷上杉は滅びました。
この戦いで上杉家は勢力が全く衰え、後、北条氏が関東の覇権(はけん)を手中(しゅちゅう)にしました。
(左)東明寺です (右)“川越夜戦跡”の表示板です(^.-)☆
(左)(右)いずれも“川越夜戦跡”の碑です
(左)(中)いずれも東明寺です (右)裁判所です(^.-)☆
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