備陽史探訪の会ぶら探訪
2023/03/04(土) 座床・四ツ樋周辺をディープに探訪 <3/5>

 

 

 蛙岩の存在します港町公園を後にしますと、現在は建物が建ち並び当時の様子は伺えませんけど、木之端新田・トバヤ新開を通り抜け福山市立大学方向へ…
 福山市大近くの市道には、福山で最初のコンクリート舗装残欠が(^.-)☆
 今まで、ここを車で通ります度に、「この中途半端な舗装は、デザインでも無いし、何なんだろう?…」と不思議ではありました。ふ〜ん、福山で最初のコンクリート舗装残欠≠ニは知りませんでしたネ(^.-)☆
 舗装残欠に暫し眼を向けましてから、福山市大の横を抜け福山みなと公園≠ノと戻って来ましたが、福山内港跡は、今では福山みなと公園∞福山市立大学≠ヨと様変わりですネ(^-^)//"


 <当日貰った備陽史探訪の会℃送ソより>

 ◆蛙石・木之端新田
 この辺りが干拓され木之端新田が出来る前、この蛙石は海中の岩礁であった。この場所は芦田川の澪筋と吉津川の澪筋、道三川の澪筋が集合する場所であり、干満に伴う流れが複雑で、船にとっては危険な岩であった。
 寛永18年の木之端新田造成により田の中の岩となった。
 現在のこの公園の地面高さは標高1.4mであり、満潮海面(大潮)は標高2mであるので、現在でも海面すれすれという位置関係である。

 ◇備陽六郡誌 深津村
 當村近邊、元和、寛永の比迄者海にて、なら津、吉津、徳田、道上の邊迄、船の往來有て、蛙岩(御座床の後に有)の峭(岨)に船を乘かけ、多く破損しけるとそ。薬師寺の邊も西濱とて遠干潟なりしとそ。(中略)木之端新田、寛永18年成就す。此時迄蛙岩壹丁(約109メートル)四方程有之候處、段々打碎、纔三間(5.5メートル)四方程殘有之。

 ◇西備名區 蛙石
 西濱の沖、今は田の中にあり。昔、海路の時、岨にてありしとも云ふなり。又、里諺には此沖の蛙石と云ふは、此處に年經たる大蛙なりしが、或時大蛇來りて呑まんとす、蛙、逃げ廻りせんかたなく恐ろしさの一念こって石となる、大蛇もくわへ見けれども石となりければのまれす、大に気を落とし此處に死したり、其頭は王子山にあって尾は市村山の裾にありしと云ふ。

 ◆トバヤ新開
 福山志料には記述されているが、実体不明の謎の新開。形状・絵図などから寛文6年(1666)以降それほど遅くない時期に造成されたものと思われるが、詳細不明。地面は海面より高いので埋め立てで造られた新開であり、おそらく入江の浚渫で出た土砂で造られたものと思われる。

 ◆福山で最初のコンクリート舗装残欠
 終戦後福山で最初の舗装工事はコンクリートであった。恐らく唯一残っている場所。

 ◆福山内港跡
 昭和の初め頃、大山樋門より手城側を掘削拡大し福山内港が造られた。県営桟橋なども作られ、島へ渡る連絡船などが発着していたが、平成の初期頃埋め立てられ、みなと公園や大学用地として整備された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スタート地点であります福山みなと公園≠ノと戻って来ますと、四ツ樋≠ノ向かいます前に、暫しトイレ休憩となりました。
 公園内でグラウンドゴルフを楽しんでおられます方々も、丁度、休憩中でありましたけど、休憩と言いますよりも、前半・後半の各8ホールを終えプレー終了…と言ったところでしたのかも…
 公園の外周をジョギングしておられる方…ウォーキングのご夫婦も…
 春間近とは言いましても、まだまだ肌寒く、公園内の人影は決して多くもありませんけど、こぅして見廻しておりますと、のどかな景観ですねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 暫しの休憩後には、また探訪再開です。
 川口新四国八十八ヵ所第5番地蔵寺≠横目に、四ツ樋樋門≠ノと到着です。


 ◆四ツ樋

 ここは福山南部干拓地でも最も低い場所であり、その為この場所に干拓地にたまった水を拭くための樋門が造られた。樋門が四つあったので四ツ樋≠ニいう。
 冨岡新田(舟入新田)が出来る前までは古座床の北あたのに排出樋門があったと思われるが、排出が悪く、後に新町となるあたりには水が溜まり池が出来ていた。この水はけを良くするために造られたのが冨岡(舟入)新田であり四ツ樋であった。干拓地拡大に伴い、その後ここは入江を除く城下と多治米迄の城下南干拓地という広大な範囲の排水を受け持った。

 

 

 

 

 

 

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