2022/02/28(火) 福山市熊野町「常國寺」散策 <2/3>

 

 

 

 

 

 

 

 

 本堂の前に立ちまして見上げますと、これは何と書いてありますのでしょうネ…常國寺の山号は「広昌山」ですから「廣昌山」と綴られていますのでしょうねぇ〜
 本堂左にはお上人の像が…この像は、日蓮聖人?…それとも日親上人?…どちらなのでしょうネ…
 「鍋被り上人」と呼ばれた日親上人。常國寺を「西国布教の道場」とし布教活動に注力されました日親上人ですから、やはりこの像は日親上人なのかも…

 ◆日親

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日)-長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。

 ・生涯
 上総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門された。同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。
 日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。
 翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。
 同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。長享2年(1488年)に入寂、享年82歳。

 ・日親と不受不施義
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。
 特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。

 ・日親の活動
 日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。

 ◆福山市常國寺が宗門史跡に

 --- 日蓮宗新聞 2018年8月10日号 ---

 ・福山市常國寺が宗門史跡に

 広島県福山市常國寺が「日親上人西国布教の道場」として宗門史跡に指定され、7月3日に認証式が東京都大田区の日蓮宗宗務院で行われた。全国で22番目の宗門史跡指定で、広島県では初の指定となった。
 常國寺は領主の渡邊越中守兼が「なべかむり日親」として有名な久遠成院日親上人を招いて文明年間(1469〜87)に創建した寺院。日親上人は九州総導師として九州布教に尽力。京都市本法寺(現・本山)と佐賀県小城市光勝寺(現・本山)間を幾度となく海路を使って往復した。
 常國寺は瀬戸内航路の要港・鞆の浦に近く、風待ちや中継点として常國寺に留まることが多かった。同寺には日親上人に関わる貴重な寺宝が格護されている。また同寺の創建により地域の法華信仰が盛んになり、周辺地域一帯が皆法華に帰依し、多数の講中が同寺を信仰の拠り所とした。また織田信長に京都を追放された室町幕府最後の将軍・足利義昭が同寺に寓居したことで鞆幕府とも呼ばれた。義昭は上杉謙信など全国各地の有力大名に打倒信長の書状を発したが、同寺にはそれをしたためる際に使われたとされる硯・筆などが収められた蒔絵硯箱が現存する。

 認証式で中川法政宗務総長は「宗門史上、日本史上で重要な役割を占めただけでなく、現在・未来の布教に資する内容を持った点が指定の決め手となった。講中をはじめ古来の信仰の姿を現在にとどめていることは、全国の日蓮宗寺院に対する範ともいえる。この指定が地域におけるさらなる信仰の盛り上がりにつながると期待している」と話した。濱田壽教住職は「檀信徒はこの指定を喜んでおります。ますますの信仰の増進と護持に向け、檀信徒とともに今日から心新たに精進いたします」と応えた。
 中尾堯文宗宝霊跡審議委員会副委員長は「日親上人創建の寺院は30余あるが、本山の本法寺に次ぐ存在がこの常國寺であろうと考えられる。京都の戦災・天災から避難して運ばれてきた貴重な宝物がある。一円皆法華が達成され、現在も住職と講中がつながり合っている。法華信仰のあり方の理想を今も示している貴重な寺院といえる」と話す。
 常國寺のある熊野町には現在37の講中があり、寺から6km以内には大小30以上のお堂が飛び地境内に現存し、法華信仰の拠点となっている。また明治12年に始まる「法華経漸読千部会」は毎年4月上旬に5日間にわたり僧侶のべ約90人が出仕して営まれる。その際には地元の小学校に入学したばかりの1年生による稚児行列が盛大に行われ、春の風物詩として地域に親しまれている。


 …と、こんな「日親上人」で、さぞ、立派な方でしたのでしょねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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