2022/02/28(火) 福山市熊野町「常國寺」散策 <1/3> |
■2022年03月17日11:13
2/28(火)は、「一乗山城跡・常國寺」を散策でした(^.-)☆
中国新聞sanのこんな朝刊記事に誘われて、2/28(火)には、何度か出掛けてはおりますけど、熊野町の「一乗山城跡と常國寺」を散策となりましたGONsanです(^.-)☆
熊野水源地に到着しますと、まずは熊野貯水池堰堤脇にあります「一乗山城跡と常國寺」をパチリです。
◆一乗山城跡と常國寺
一乗山城は、渡辺越中守兼によって、文明〜永正年間(1469〜1521)に築かれた山城で、郭・石垣・掘切・井戸などの保存状態が良く、昭和39年3月31日に市史跡に指定されています。
城主の渡辺氏は、室町時代の初めに草戸村に入り、四代目兼の時代に山田荘(熊野町)に移りました。毛利氏と尼子氏の争いの時には、初め尼子氏に就きますが、兼の晩年に毛利氏に属します。以来、五代(兼・房・高・元・景)にわたって一乗山城を拠点としますが、関ヶ原の戦いで敗れ、この地を去ります。
その間、室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って鞆へ来住した時は、渡辺氏が警護と接待役をつとめ、その縁で渡辺氏の菩提寺である常國寺には義昭ゆかりの品が伝えられています。境内には江戸時代の建造物など多くの文化財が残されています。
市 史 跡 -- 一乗山城
市重要文化財 -- 常國寺建物(唐門・鐘楼・番神社本殿)・常國寺文書・足利義昭胴肩衣
市天然記念物 -- 常國寺のケヤキ・常國寺のモッコク
--- 2013年(平成25年)3月 福山市教育委員会 ---
※ 足利義昭胴肩衣(あしかがよしあきどうかたぎぬ) 附肩衣之由来書
--- 市指定重要文化財 昭和39年(1964年)3月31日指定 ---
天正4年(1576年)織田信長と不和になった将軍足利義昭は、毛利氏を頼って鞆に来往し幕府の再興を志した。この時熊野一乗山城主渡辺四郎左衛門景は将軍の警固と接待役を務めた。
この胴肩衣は単衣の麻で、後身頃と前身頃にそれぞれ桐の紋を入れ、義昭の着用したものと伝えられている。渡辺氏がこれを拝領し、彼の菩提寺常国寺へ寄進したと考えられる。同寺蔵の足利義昭御内書・真木島玄蕃守書状(いずれも市重文)と共に義昭備後在住を物語る歴史的な遺品である。
風もありません暖かい天候ですから、池の水面も実に穏やか。イィ景観です(^_^)v
丁度、真正面に一乗山城跡が眼に入ります。
我が家の菩提寺も日蓮宗ですから、何度かお詣りしておりますけど、まずは、常國寺をお詣りも兼ねて散策ですネ(^-^)//"
今まで、「一乗山城跡」を訪れた事は有りませんけど、ふ〜ん、「一乗山城跡」上り口は、こちらの道を進みましたらイィようですネ。後で登ってみますけど、まずは「常國寺」に参詣です。
WEB上で「常國寺」を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆
◆常国寺
--- https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=37 ---
常国寺は、日親上人や足利義昭関係の遺品(常国寺文書)をはじめ、江戸時代中期の建造物(唐門・鐘楼・番神社本殿)が市重要文化財に、ケヤキとモッコクが市天然記念物に指定されるなど、多くの文化財が所在しています。
◆常国寺
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
常国寺(じょうこくじ)は、広島県福山市熊野町にある日蓮宗の寺。山号は広昌山。建立は文明18年(1486年)、当時沼隈半島一帯を領有していた渡辺兼(山田渡辺氏)による。旧本山は京都本法寺。親師法縁。
・渡辺氏との関係
渡辺兼は、若いころ京で日親上人の説法に感動して帰依していた。その後、国に戻ると付近で辻説法をする老僧のことを聞いた。これが日親上人であるとわかると、兼は上人を居館へ招き、上人に寺院建立を願い出た。こうして、常国寺は日親上人を開山として建立された。
・鞆幕府時代
戦国時代、常国寺は室町幕府崩壊期にも脚光を浴びた。織田信長に追われて逃れてきた室町幕府の15代将軍・足利義昭は毛利輝元の庇護下で鞆幕府を開いた。この鞆幕府の所在地となったのが渡邊民部少輔元の一乗山城であり、渡辺氏の菩提寺であったこの常国寺も幕府の重要な政務機関となっていた。義昭は渡辺氏の格別の働きに感謝し白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許して守護大名格としたのだが、この際に常国寺にも唐門を送り、渡辺元はこれを将軍門と名付け現在でも市重文として残っている。また、義昭ゆかりの品も数多く遺されている。
・旧末寺
日蓮宗は昭和16年(1941年)に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
◆常国寺建物(じょうこくじたてもの)
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64283.html ---
常国寺は文明年間(1469〜1487年)日親上人を開基とし、山田一乗山城主渡辺越中守兼が菩提寺として創建したと伝えられる寺院で、指定文化財建造物3棟はいずれも常国寺中興の江戸時代中期のものである。
・唐門
正面幅3.3m、一間一戸の四脚向唐門【むかいからもん】、総けやき造、本瓦葺。当山の正面門としてはやや小型であるが形態がよく整い、各部精巧で意匠が優れている。再建年代は元禄頃で、正面桟唐戸【さんからど】は前身の建物のものが使用されたと思われ,鏡板の桐文薄肉彫りはすばらしく、珍しいものである。
・鐘楼
方一間3.12m、単層入母屋造、本瓦葺。福山藩家老水野玄蕃の母が施主となり元禄年間に建立されたもので、柱は面取り角柱で内転びとなっている。
・番神社本殿
一間社,正面唐破風、千鳥破風付、入母屋造柿葺【こけらぶき】。覆屋の中に納まる小社(軒幅1.96m、棟高2.87m)で、部材の風化や損傷が少なく元禄年代の様式をよく伝える社殿である。
◆備後山田常国寺
--- http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_zyokokuji.htm ---
★備後山田常国寺概要
○山号は広昌山。山城本法寺末。
文明18年(1486)当時沼隈半島一帯を領有し山田一乗山城主であった渡邊兼(山田渡邊氏)によって建立される。
開山は日親上人。
渡邊兼は、若年の頃、京で日親上人の説法を聞き、上人に帰依する。後年、備後沼隈に戻った時、沼隈で辻説法をする老僧のことを聞き及び、この老僧とは日親上人であると知り、兼は上人を居館へ招き、上人に寺院建立を申しでる。これが常国寺であり、開山は日親上人とする。
当時この地方は、山南光照寺の勢力が強大で多くの真宗寺院が存在していたが、渡邊氏は自己の領内(山田荘)の寺院・民衆に対しことごとく法華の受法を強制した。そのため、山田荘内の多くの寺院が荘外に逃れたといわれ、鞆町にはこの時、山田より移ったといわれる真宗寺院がある。
○山田渡邊氏:
山田渡邊氏は嵯峨源氏源融の8代後の渡辺綱の後裔と伝える武家である。
渡邊持の代、足利尊氏に従って戦功があり、備後山田荘の地頭職となる。
嘉吉の乱、応仁の乱を経て、戦国の世に突入するも、渡邊氏は幾多の戦乱を切り抜け家名を守り通す。
渡邊越中守兼の代には一乗山城を築き、常国寺を建立するなど山田荘に確固たる地歩を築く。(兼以下の系譜は房・高・元・景と継承される。)
元亀4年(1573)織田信長は15代将軍足利義昭を京都から追放、義昭は各地を転々とした後、毛利元就を頼り、備後鞆に幕府を開く。この時、渡邊元は鞆幕府で義昭に近侍し、重用される。
慶長5年(1600)渡邊景は、関ヶ原の戦いで西軍に加担する。その結果は、西軍の敗北であり、領地は没収され一乗山城を立ち退き、ここに戦国武将としての山田渡邊氏は終焉する。
渡邊景のその後であるが、渡邊景は正式には渡邊四郎左衛門景といい、関ヶ原の後仏門に入り、各地を点々とするも、最後は福山藩主水野勝成の要請を受け入れ、備後福山に帰り、城下に通安寺の寺地を賜り、通安寺を実質的に開山しここに住する。
なを、四郎左衛門の備後帰国の前に四郎左衛門の4人の子息は水野家に召し抱えられ、明治維新まで家系は続くという。
☆備後福山通安寺は常国寺末→通安寺及び渡邊四郎左衛門に関しては備後の日蓮宗諸寺中にあり。
…と、こんな常國寺であります(^-^)//"
ノンビリと石段を上がりながら、眼に入ります景観を次々にパチリです(^.-)☆
そぅしています内に唐門までヤッて来ました。ここには、こんな説明板が…
◆福山市重文 常國寺唐門
--- 福山市熊野町常國寺 1964年(昭和39年)10月10日指定 ---
当山の正面門としては、少し小さいですが、形態がよく整い、各部精巧で意匠が優れています。
再建年代は元禄頃(1688〜1703)で、正面桟唐戸前身の建物が使用されたと思われ、鏡板の桐文薄肉彫りはすばらしく、珍しいものです。
一間一戸の四脚向唐門で、総けやき造りです。正面は巾3.3mあり、屋根は本瓦葺です。
--- 福山市教育委員会 ---
今までは、福山市の重要文化財でしたけど、今回、県の重要文化財に指定です。
◆広島 福山市常國寺唐門が県の重要文化財に
--- 日蓮宗新聞社 全国の通信記事 2022年2月22日 ---
【広島】広島県福山市常國寺の江戸時代中期に造られた唐門が、県の重要文化財に指定された。指定の理由は、室町幕府第十五代将軍足利義昭と常國寺の関係性を、江戸時代の職人たちが建物形式やデザインで示したことなどが挙げられている。県の重要文化財になるのは11年ぶり、建造物としては46件目の指定となった。
濱田壽教住職は、「450年の時を経て、将軍門が今もお寺にあるのは、皆さまのご先祖が、御題目信仰と共に、歴史を受け継いでこられた証(あかし)です。指定の喜びを共に致しましょう」と語られた。
◆福山の常国寺唐門、広島県重文に 県教委、足利義昭の御所
--- 2022/02/15 7:57 中国新聞社 ---
広島県教委は、福山市熊野町の常国寺唐門を県重要文化財に指定すると決めた。室町幕府最後の将軍足利義昭が備後国に滞在した際に御所の一つとした史実を伝えている点や、各部の精巧な造りを評価した。県重文の指定は建造物では11年ぶりで、計319件になる。
唐門は江戸中期の18世紀前半の建築で本瓦ぶきの幅約3.3メートル、奥行き約2.0メートル、棟高約5.6メートル。扉上部には足利家ゆかりの桐(きり)文様を浮き彫りにした板がはめ込まれ、上部を支える「蟇股(かえるまた)」には、足利家の家紋「二つ引両」が彫られている。柱の上部をつなぐ頭貫(かしらぬき)にある雲形の彫刻や、梁(はり)の上にある大瓶束(だいへいづか)の装飾の技法も優れているとされた。
常国寺は室町中期の文明年間(1469〜87年)の創建と伝わる。義昭が毛利氏を頼って1576〜87年に備後国へ入り、再起を図った際に御所にもなった。義昭が愛用した羽織などが死後に奉納されたとされ、現在に伝わる。浜田寿教住職(59)は「地域にも守られ、受け継いできたことが評価された」と喜んだ。(吉原健太郎)
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