2022/08/26(金) 福山市草戸町「草戸山城跡」散策 <3/9>

 

 

 

 

 

 ど根性樫(御霊木)を通り過ぎ、また暫く進んで行きますと、左側前方に竹で組まれた堤のようなモノが…
 竹ですから池の堤でもないでしょうし…砂留なのかも分かりませんネ。
 で、確認のため近付こうとしましたが、雑草・樹木に遮られ、おまけに蛇でも出そうで、近付きますのは断念でした(^-^;
 上り道に戻り、また進んで行きますと、「愛宕大権現(天狗の面)」にと、到着です。
 社の壁面には「天狗の面」、そして、軒下には「愛宕大権現(天狗の面)」の説明板が…これには、こんな説明がありました(^.-)☆

 ◆草戸・川西歴史街道 散策路 <7-2>愛宕大権現(天狗の面)

 --- 草戸の歴史を愛する会 ---

 愛宕権現(あたごごんげん)は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の尊称である。修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とし、この実践者を修験者または山伏という。
 愛宕社正面の木製額には稲荷大明神、愛宕大権現、役行者(えんのぎょうじゃ)菩薩が祀ってあり、神仏混沌としている社は少ない。役行者菩薩(634〜)は呪術者(じゅじゅつしゃ)で超自然的な方法で思いをかなえる修験道の開祖である。山岳信仰はのちに真言宗、天台宗に結びついていった。菩薩は一本歯の高下駄をはき、前後に前鬼(大天狗)、後鬼(子天狗)を伴った。
 毎年春に紫燈(さいと)護摩火渡修行の「愛宕山大祭修行」が開催される(写真)。
 紫燈護摩とは、山伏が護摩木で大きな壇を組み、それを燃やし炎の中に不動明王を観じ、祈祷することである。

 
-- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり基金を活用して実施しています --

 …と、こんな「愛宕大権現(天狗の面)」であります。
 愛宕社の堂内には、愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵菩薩と役行者像が安置されているようであります。
 西備草戸中道山明王院真景には「鎮守三社」と記されているとの事であります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「愛宕大権現(天狗の面)」から更に上に向かって行き、竹林の間を抜けますと前方に建物が…愛宕神社のようですネ。
 三叉路に到達し、左に進めば愛宕神社で、右に進むと水源地のようです。
 んっ、水源地!?…知らないなぁ〜聴いた事もないし…
 愛宕神社・展望台方向に進む前に、まず水源地に向かってみましょうか…で、右に向かおうとしますと「親王院跡 平成24年12月 草戸山会」の案内板が…
 「親王院跡」とは、何なんでしょう?
 WEB上で検索しますと、「備陽史探訪の会」の『ぶら探訪(https://bingo-history.net/archives/23032)』に、少しだけ記載が…

 ◆親王院跡
 平城天皇の皇子で空海の弟子となった真如法親王が庵を結んだところと伝わる。


 ふ〜ん、そぅなんですか…でも、「真如法親王」と言われましても、一層、分かりません(^-^;
 これまた、WEB上で検索です。

 ◆高岳親王(真如法親王)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 高岳親王(たかおか しんのう)は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、薬子の変により廃された。のち復権され四品となるが、出家して真如入道親王(しんにょ にゅうどうしんのう)を名乗る。空海の十大弟子のひとりで、仏法を求めて老齢で入唐し、さらに天竺を目指して旅立ったのち消息を絶った。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。

 ・経歴

 大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)の薬子の変に伴い皇太子を廃される。弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如を名乗り、奈良の宗叡や修円、そして空海の弟子として修行した。やがて空海の十大弟子のひとりとなり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。
 斉衡2年(855年)、地震により東大寺大仏の仏頭が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。老年になり入唐求法を志して朝廷に願い出、貞観3年(861年)に親王や宗叡らの一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する。
 貞観6年(864年)、長安に到着。在唐30余年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため天竺行きを決意。貞観7年(865年)、皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧・中?らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。虎の害に遭ったという説もある。現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている。


 …と、こんな方のようであります(^-^)
 この「親王院跡」の案内板の後方にも説明板がありましたようですけど、哀しいかな気付かず、眼を通しますのを失念です(^-^;
 とりあえず、右に進み水源地に向かってみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 標識に従って暫く進んで行きますと、左側斜面にポツンと石仏が…とりあえず、パチリです。そしてまた、歩行続行。
 そぅしますと、狭いのですけど開けた場所に…ここには、ベンチがいくつか設置されておりますけど、廻りは樹木に囲まれて眺望は不可。樹木に囲まれていませんと、芦田川・福山市内が眺望出来ましたのかも…
 この広場には、何か分かりませんけど二ヶ所、コンクリート製の遺構らしきモノが…以前には、何が設けられていましたのでしょうねぇ〜
 この広場から少し先に進んで行きますと、地面に周辺の樹木の根が露出です。無数の根が絡み合ってイィ景観ですから、これもパチリ(^.-)☆
 絡み合った根を踏みしめて進んで行きますと、「←明王院 ↓水源地表 水源地ウラ→」の案内標識が…
 ふ〜ん、真っ直ぐ進めば「水源地ウラ」で、下に下って行きますと「水源地表」に向かうようですけど、そのまま直進で「水源地ウラ」に向かいます事に(^-^)//"

 

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →