2022/08/26(金) 福山市草戸町「草戸山城跡」散策 <4/9>

 

 

 

 

 

 

 直進しますと、一旦下って、また登った所が終点で山頂のようですネ。ここには石仏が祀られておりました。この山頂の西側スグ下には、何やら貯水タンクらしきモノが存在です。何なんでしょうねぇ〜
 暫し、この場に佇み、思案のGONsanです。「水源地ウラ」に到達しましたのですけど、この祀られた石仏は何?…と考えていまして、ヤッと納得。うん、うん、「水源地」と記載がありますから分かりませんでしたけど、この「水源地」と言うのは、昔の『佐波浄水場』なのかも分かりません。今、GONsanが立っています場所は、位置的には佐波浄水場近くの山の上ですから…
 …と言う事は、この石仏が置かれています場所は、「佐波城の本丸跡」なのかも分かりません。なら、先ほどのベンチの置かれました平坦地には曲輪がありましたのかも…
 いゃぁ、大納得のGONsanです。今回の散策は、「草戸山城跡」を訪れますのが目的でしたけど、「水源地」方向に向かったお陰で「佐波城跡」をラッキーにも訪れる事が出来ました(^.-)☆
 ここが、「佐波城跡」であります事を確信しましたGONsan、早速、WEB上で「佐波城跡」を確認です。そぅしましたら、うん、うん、こんな記載がありましたネ\(^o^)/

 ◆佐波城山公園

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 佐波城山公園(さばしろやまこうえん)とは、広島県福山市佐波町城山にある公園。

 ・概要
 中世に作られた「佐波城」跡の一角に、1925年(大正14年)福山市における最初の浄水場である「佐波浄水場」が整備され、1989年(平成元年)から廃止となっていたが、旧浄水場施設が国の登録有形文化財に登録されたことを機に、2014年(平成26年)4月1日敷地を公園として整備された。
 福山市中心部を流れる芦田川にかかる国道2号筋の神島橋すぐ南西方向にある佐波町にあり、JR福山駅から南西約2キロメートルに位置する。
 福山市内における桜の名所の一つ。なお旧福山市内における園内に文化財がある歴史公園としてはここと福山城址公園(福山城)のみとなっている。

 ◆備後の歴史を歩くコミュの福山市佐波町 佐波城と佐波越中守

 --- https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1818324&id=40584276 ---

 ・福山市佐波町 佐波城と佐波越中守

 市内で一番簡単にハイキングが楽しめるのは、草戸町の明王院裏山だろう。五重塔の左手に、山頂近くにある「愛宕さん」の参道があり、この道を利用すると15分ほどで山頂広場に達する。もっと手っ取り早く散策を楽しもうとすれば、車で明王台に行き、給水塔下の駐車場から尾根道に入る、左に5分歩けば山頂広場だ。
 また、この地は市民にとって最も身近な「中世」とも言える。福山のルーツの一つ、「草戸千軒町遺跡」は、明王院(旧称常福寺)の門前町として栄えた中世の市場町だ。中世の人々も事あるごとにこの山を歩き回ったはずだ。戦乱の時代には当然この山にも砦が築かれた。草戸山城、佐波城と呼ばれる山城の跡がそれだ。
 草戸山城は「西備名区」に記載がある山城で、渡辺一族の居城とあるから、以前に紹介した「草戸中山城」と同じものであろう。同城は、草戸の通称「大鳥越」の南に一見独立した山城のように見えるが、切通しの北の尾根上にも曲輪跡と思しき平坦地が数段あり、この部分もその城域に含まれよう。
 草戸山城(中山城)が明王院裏山の南端を利用して築かれたのに対し、今回紹介する佐波城は、その北端に築かれた山城である。

 明王院境内から愛宕さんの参道を通って裏山に登ると、愛宕さんの社前で道は左右に分かれる。左に行けば山頂広場を経て、明王台団地の給水塔下の展望台に出て、更に下れば渡辺氏の拠った草戸中山城に至る。
 佐波城の跡には、愛宕さんの前から右に進む。最初に「親王院跡」がある。平城天皇の皇子で、出家して羅越国(東南アジアにあったという国)で虎に食われて亡くなったという、高岳親王が一時住んだという旧跡で、今はわずかな平地と腐朽した標柱が残るのみだ。ここから更に進むと、木のベンチのあるやや広い広場に着く。ここも中世、城があった時代、武者の屯した曲輪の一つだろう。
 佐波城の跡と伝わる場所は、明王院裏山の一番北の山頂だ。愛宕さんからの道は、ベンチのある広場を過ぎると急に険しくなり、一旦落ち込んで、5メートルほど登ったところにかつての本丸跡がある。一旦落ち込んだ部分が所謂城の「堀切」だ。本丸跡は堀切側に「土塁」の痕跡が残るのみで、北は断崖となって福山市の旧浄水場跡に至る。そう、この城の大部分は大正時代、福山市の佐波浄水場の建設によって壊されてしまったのだ。

 佐波城は、今も地元の人に「城山」として親しまれている。浄水場の建設によって壊された部分には、曲輪跡などの遺構が残っていたはずだ。残念なことである。
 だが、この旧浄水場は「福山市」が誕生する原因となったもので、既に稼動していないが、レンガ造りの建物はそれ自体が貴重な歴史の生き証人となっている。城とは関係ないが、芦田川の三角州に建設された福山の城下町は、当初から飲料水の確保が悩みの種であった。明治時代、旧上水道が原因で数百と言う人が伝染病で命を落とした。福山の人にとって近代的な上水道の建設は至上の命題であった。近代上水道の建設には莫大な予算が要る。「福山町」では国の補助金が下りない。大正3年、福山町に「市制」が実施されたのは実に、この上水道の敷設の為であった。水源は当時の熊野村「論田池」が選ばれ(今の熊野水源地だ)、その水は導水菅によってこの佐波の浄水場に運ばれ、「飲料水」となって市街地に給水された。
 佐波城の城主は南北朝時代の武将佐波越中守可美と伝わっている。可美は元弘の変に際し、桜山氏に味方し、この城を築いて南朝方の旗を揚げた。佐波氏の後は名倉氏が居城し、応仁の乱を迎えている。
 この時代、城は武士だけではなく、商人や農民も立て籠もったから、いざ合戦と言う場合には草戸千軒町の人々も篭城したに違いない。むしろ、立地的に明王院裏山に残る山城は、名倉氏や佐波氏、渡辺氏の城と言うよりも、草戸千軒町の住民の避難所であったすべきかも知れない。


 …と、こんな記載がありました。
 う〜ん、やはり、今、GONsanが立っています場所は「佐波城跡」の本丸跡でありますようです(^_^)v
 それにしましても、この石仏があります場所に、何故、「佐波城跡」の説明案内板が設置されていませんのでしょうねぇ〜これが、チト、不思議ではあります。まぁ、イィのですけど(^-^)
 それでは、往路を単純に引き返します事に。
 途中、三叉路があり右側に進んでみますと、何となく明王台小学校方向に向かっています感じですから、引き返し、素直に往路を「愛宕神社」まで引き返す事となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 往路を、そのまま「愛宕神社」まで戻って来ました積もりでしたけど、何処かで進む道を間違いましたようで、愛宕神社のスグ上に戻って来ましたようです(^-^)
 愛宕神社に戻って来ますと、こんな説明板が…

 ◆福山市重要文化財 草戸愛宕神社本殿

 --- 福山市草戸町(草戸稲荷神社)1964年(昭和39年)10月10日指定 ---

 愛宕神社は明王院の裏山に鎮座し明王院の鎮守社でしたが、明治期の神仏分離により現在は草戸稲荷神社に属しています。
 本殿は覆屋内に納められており、宝形造の前面に縋(すがる)向拝があり、唐破風付、桧皮葺(ひわだぶき)とした複雑な屋根(春日造社殿の屋根を宝形造とした珍しいもの)で棟高は3.6m、正面柱間は1.06mの小社である。棟札により寛永5年(1628年)の創建が明らかで、規模は小型だが、各部精巧で意匠が優れており、江戸時代初期の風趣をよく残しています。保存状況も良い。


 本殿は覆屋内に納められておりますけど、こんな「草戸愛宕神社本殿」のようですネ。
 ついでに、再度、水源地方向に向かいます三叉路もパチリ。「親王院跡」の案内板の後方に、傾いた説明板がありましたのですけど、これは撮りますのを失念でした。
 WEB上で「親王院跡」を検索してみますと、こんな説明板でありました(^.-)☆

 ◆草戸・川西歴史街道 散策路 <8>親王院跡

 --- 草戸の歴史を愛する会 ---

 明王院裏山の石段を登ると愛宕大権現(明王院)があり、さらに登ると草戸愛宕神社本殿(市重文・草戸稲荷)に出会う。この建物の右手に少し平らになった土地がある。
 ここは真如(しんにょ)法親王が承和4年(837年)ころ暫く幽栖(ゆうせい)し、地方の強化に努めた場所とある。真如法親王は平城(へいぜい)天皇(桓武天皇の皇子)の第二皇子である。
 大同4年(809年)平城天皇は病気のため同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位したが、嵯峨天皇と平城上皇の間の内乱に破れ(薬子の変)平城上皇とともに落髪して、真如法親王は弘法大師に従った。
 場所は地図には「奥ノ院」(下図)と記されているが、江戸時代には既にその痕跡を示すものはなかったとある(西備名区)。
 住人からは「お公家さん」がいたと伝えられている。

 -- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり基金を活用して実施しています --


 それではまた、草戸山城跡を目指し、展望台方向に散策続行です(^-^)//"

 

 

 

 

 

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