2021年 鞆の浦 de ART 2021 <2/13> |
安国寺の庭園を充分拝見しましたので、それでは本来の目的でありますアート作品を鑑賞です。
彫刻のタイトルは『種』、素材は鉄のようですネ。
んっ!?…アーティストのお名前は「大前和之」sanで、このお名前に、一瞬、眼が止まってしまいましたネ。大前和之sanのお名前で、まずGONsanの頭に浮かびますのがプロゴルファーの大前和之sanなんです。
ゴルファーとしてのみでなくアーティストとしてもご活躍なんだろうか?…との想いが脳裏をよぎりましたけど、同姓同名なのかも…との想いも。
早速、WEB上でお名前を検索してみますと、うん、うん、やはり同姓同名でありました。倉敷市ご出身のアーティストでありました(^.-)☆
それではこの辺で安国寺とお別れし、次に、「臨済宗妙心寺派 正法寺」に向かいますことに(^-^)//"
◆正法寺(しょうぼうじ)について
--- http://www.shoubouji.net/about.html ---
・創建から四百有余年 鞆の町とともに歩んだお寺の歴史
正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
・正法寺こぼれ話@
当寺の北隣に「安国寺」という1273年から続くお寺があります。当寺創建時にその安国寺の住持を務めていたのは安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物でした。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。
・正法寺こぼれ話A
当寺を再建した深溪和尚は庭造りに大変熱心だったと伝わっていますが、400年の時を経た現在、和尚の庭がどのようなものであったのか、残念ながら見ることはできません。
ですが、ある僧が和尚の庭を眺めた折に遺した一句からその姿を窺い知ることができます。
「ひとやあらぬ花はむかしの作庭」
(直訳:この庭を作られた風流な方は既に故人と聞いているが、きれいに咲いている花々は故人にかかわりなく競い咲いているようだ)
天和元年(1681年)「あくた川のまき」より
この句は和尚が当寺の住持となってから60年程後に詠まれたものです。庭の数寄に感じ入り、庭を作った人への追憶、そして人間の儚さが秘められたこの一句から、和尚の庭は花が咲き誇り、思わず発句したくなるような素晴らしいものであったことが推察されます。
◆正法寺
--- https://tomonoura.life/spot/12663/ ---
1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。
・愛嬌あるお地蔵さまの居るお庭
正法寺のお寺には、個性あふれる可愛いお地蔵さんが、たくさん並べられています。頬寄せ合ったり、万歳したり、ほんとうに愛嬌があります。ご住職が各地を回って集められたとのこと。
枯山水の閑雅な庭に、水琴窟の音がカララララ…と鳴り響きます。
可愛らしい表情のお地蔵さん - 見ていて飽きません。
・願いが叶えば、思うつぼ
お寺の玄関前には壺があります。その名も「思うつぼ」!この中には、「多羅葉(たらよう)」という葉っぱが入っています。葉の表面を棒でなぞると文字が刻みつけられるという、特殊な葉っぱです。
昔、紙と筆の代わりに使われたもので、これが“葉書(はがき)”の語源だという話。願いを書いて壺に入れると、叶うって?それじゃあ、試してみようか!
ご住職の遊び心溢れる「思うつぼ」、そのネーミングに思わずにんまり。
山門横には、『のぼるばかりの 登山なし いかに上手に 降りていくか』の書が…どなたが書かれましたのでしょうネ(^-^)
境内に入りますと、小林照尚sanのアート作品『SHI・RU・SHI』(素材:万成石)が、まず眼に入ります。
広島県のお生まれで岡山県在住のアーテイストのようであります(^.-)☆
◆経歴
-- 作品出品・受賞 --
1981年 日展 入選(〜83) 東京都立美術館
1984年 JAPAN牛窓芸術祭実験彫刻展 岡山県牛窓町
1986年 岡山県現代彫刻選抜展 岡山県総合文化センター
1987年 汎瀬戸内現代美術展(以後89,91,93,95) 岡山県総合文化センター
1990年 現代日本木刻フェスティバル入選(以後92) 岐阜県関市、「岡山の美術・現代作家の眼」展 岡山県総合文化センター
1991年 足立区野外彫刻コンクール入賞 東京都足立区、ふくやまアートプロジェクト具象彫刻展 福山・ふくやま美術館
1993年 第7回神戸具象彫刻展で読売賞,神戸市民賞 神戸市、'93日向現代彫刻展で日向市民大賞('94も出品) 宮崎県日向市
1994年 新潟市野外彫刻展 入選 新潟市、彫刻公募ln能生 入選 新潟県能生町
1996年 第8回神戸具象彫刻展 佳作賞 神戸市
1997年 岡山市文化奨励賞 岡山市
1998年 仙台市彫刻のあるまちづくり事業 第2期 第9作品制作 仙台市泉区
◆万成石
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
万成石(まんなりいし)とは、岡山県岡山市北区の万成または矢坂地域から産出される角閃石黒雲母花崗岩である。
日本の銘石のひとつとして東日本の本小松石、西日本の庵治石と共にブランド化された万成石は、桜色の美しさから、昔も今も多くの人々に愛され、近年も需要は非常に高い国産の石材である。
・特徴
淡紅色のカリ長石、白色の斜長石や石英、黒色の黒雲母等で構成された、完晶質・中粒の花崗岩である。
万成石の特徴は、「桜御影」と呼ばれるだけあって、桜色がかった色をしている。日本で桜御影というと、第一にこの万成石の名が挙げられる。一見、桜色という色が柔らかそうな石のイメージだが、実際は国内の石材の中でもトップクラスの硬さを持つ石である。
圧縮強度 - 15,000N/cm2
比重 - 2.61g/cm3
吸水率 - 0.17%
その桜色がかった優美な石目の万成石は、石原裕次郎、横山やすし、朝倉文夫、イサム・ノグチなどの著名人の墓に使われている。歴史上の人物・偉人の像の台座や、古くから親しまれている建築の建材としても、これまで様々な使われており、永い時を経ても変わらず、風化に強く、気品あふれ、高級感を生み出す石材として、ブランド化されている。
万成石の山は、ひとつひとつの玉石の積み重なった山である。大きな物では、2,000トン以上の大きな玉石もあり、様々な需要に応えられ、また、長期に渡る安定供給の歴史、見通しがついている。
・歴史と現状
万成石の歴史は、天保年間(1830年 - 1843年)に自家用石材のみの採石として始まったとされている。商業採石が本格化したのは、1888年(明治21年)光田石材によるものという。昭和末期から平成初期にかけては採石業者が9社11丁場存在したものの、現在も採石している業者は有限会社武田石材と有限会社浮田石材の2社(2丁場)のみとなっている。
採掘量は以前と変わらず、年間20,000才以上も容易に採掘・出荷でき、採掘元のひとつである武田石材では、2010年4月に8m3の石材や挽材・4尺角以上・10尺以上の長尺物と大材も採れ、安定した供給量が見込めるとしている。
正法寺のお寺には、ご住職が各地を回って集められた個性あふれる可愛いお地蔵さんが、たくさん並べられていますので、「これもアート作品?」…と、多少の戸惑いもありましたネ(^-^)//"
← 戻る Contentsに戻る トップページに戻る 進む → |