2021/12/12(日) ふくやまピース・ラボ主催「ピースウォーク」 <3/4>

 

 

 

 

 

 石垣を横目に福山駅北口にヤッて来まして、ここからは石段を上がり筋鉄御門・伏見櫓方向へ向かいます。筋鉄御門は工事中で通れませんから伏見櫓の左側(西側)を歩行です。

 ◆福山城(福山城博物館パンフより)

 元和5年(1619)徳川譜代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり、ここ福山に城を築いてから福山の城下町としての歴史は始まりました。その後、水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県にいたるまで、福山城が藩治の中心となったのです。明治6年廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊されました。しかも、昭和20年の戦災により、天守閣と御湯殿を焼失しましたが、昭和41年秋に市制50周年記念事業として、天守閣と御湯殿、月見櫓が復原されました。幸い焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は昔日の姿を止め国の重要文化財に指定され、城地は国の史跡として保存されています。福山城は近世築城の最後のものとしてその完成された築城術の粋を誇るもので、全国城郭中屈指の名城としてたたえられていました。

 ◆伏見櫓【国重要文化財】

 三層三階の隅櫓、本瓦葺。京都伏見城・松の丸にあったものを水野勝成の福山城築城に当たって、徳川二代将軍秀忠が移築させたものである。伏見城の城郭建築の遺構としては希有のもので、白壁三重の豪華な姿に桃山時代の気風がうかがわれる。
 また、二階梁より京都伏見城からの移築を表す刻印が発見されており、その価値を更に高めている。
 筋鉄御門と同じく戦災を免れており、現在国重要文化財に指定されている。
 ・国重要文化財
 ※ 内部非公開(但し例年11月3日文化の日(祝)のみ公開)

 ◆福山城伏見櫓(ふくやまじょうふしみやぐら)

 この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
 櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。

 ◆伏見櫓

 伏見櫓は1601年(慶長6年)前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を1620年(元和6年)に移築したものです。
 これは1953年(昭和28年)に行われた解体修理の際に2階の梁から「松ノ丸ノ東やくら」との墨書が発見されたことにより移築が裏付けられています。
 城内側に窓がほとんどないのは、城主の居館である本丸御殿を見おろすことがないようにと考えられたからです。
 伏見櫓は天守を除けば熊本城の宇土櫓と並び、現存する最古の櫓のひとつで、国の重要文化財に指定されています。
 3重3階で初重と2重は「総二階造」といわれる同規模の構造を持ち、その上に独立した構造の小さな望楼部を乗せる慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓となっています。壁仕上げは白漆喰総塗籠で長押形を施している。桁行は8間(約15m)あり、並の城郭であれば天守に相当する規模を持っています。
 なお、豊臣秀吉が築いた伏見城の遺構と説明されることもありますが、豊臣時代の櫓は「関ケ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」で焼失しており、建築様式の面からも徳川家康の建てた伏見城の遺構と考えるべきです。
 また伏見櫓は2004年(平成16年)10月20日、台風23号の強風により、鯱や瓦が落下するなどの被害がありましたが、2005年(平成17年)3月〜11月にかけて漆喰の補修なども含めた修理が行われました。

 

 

 

 2022年の築城400年に向けた事業の一環で、大規模改修工事が行われています福山城で、本丸南側--西側へと進み、鐘櫓・二の丸西側の石塁跡等に眼を向けながら二の丸北側にヤッて来ました。

 ◆福山城天守、一時お別れ 大規模改修本格化、1月下旬に覆い

 --- 2021/1/3 23:00 中国新聞 ---

 福山城の大規模改修が本格化し、今月下旬に天守が工事用の足場などで完全に覆われる。2022年の築城400年に向けた事業の一環で、福山市はそばに見学所を設けるなどして工事中も城の魅力をPR。22年8月の再オープンに向け、機運を盛り上げる各種のイベントも開く。
 大規模改修は1966年の再建後初めて。天守と月見櫓(やぐら)、湯殿、鏡櫓の耐震改修と外壁の塗り直し、傷んだ瓦の取り換えを予定する。天守以外は既に工事用の足場や防音用などの幕で覆われた。
 天守は、築城当時に北側にあった鉄板張りも復元する。鉄板は、防御が手薄な北側を砲撃から守るため、最上階を除く壁一面に張られていた。福山空襲で天守が焼失し、再建後は張っていなかった。
 天守内の福山城博物館の改修も始まった。これまでは古墳時代以降の市の歴史を幅広く紹介していたが、築城した初代福山藩主の水野勝成や、幕末の藩主阿部正弘らの功績を伝える資料などに一新する。
 耐震改修などを含めた全体の事業費は13億円。期間中は天守前広場にも立ち入れないため、市は東西北の3方向から工事の様子を一望できる見学スペースをそれぞれ設けた。天守が足場などで囲まれる今月下旬にはプレハブの見学所を新たに設け、小型無人機ドローンで定期的に撮影した改修の様子をモニターで紹介していく。傷んだ瓦なども展示する。
 水野勝成は1622年8月28日、幕府に城の完成を報告したとされ、市は22年の同日を築城400年の記念日として再オープンの日に設定した。城に親しむ各種の官民イベントを節目ごとに城周辺で今後開く。市の渡辺真悟・築城400年事業推進担当課長は「城の大規模改修は全国でもなかなか見られない。変化していく城の姿をぜひ見に来てほしい」と呼び掛ける。(門戸隆彦)

 <クリック>福山城
 奈良の大和郡山藩主だった水野勝成が転封して築城。天守は福山空襲で焼失したが、市が市制50周年の記念事業として市民に寄付も募り再建した。焼失を免れた伏見櫓や筋鉄(すじがね)御門は国の重要文化財。一帯は公園として整備され、園内にはふくやま美術館などがある。


 二の丸北側には、鬼門櫓(外三番櫓)・城米蔵が存在しましたのでしょうけど、今では石垣が残されている程度の状況です。

 
◆二の丸北側

 ・鬼門櫓(外三番櫓) -- 3重3階の櫓で二の丸上段の鬼門(北東)方角の位置に建てられていた。神辺城から移築されたといわれる。明治初期に取り壊され、二の丸上段内の石垣は撤去されているが櫓台の石垣は概ね残されている。
 ・多聞櫓 -- 平屋の建物で二の丸上段の鬼門櫓から御蔵口御門まで続いていた。明治初期に取り壊された。櫓台の石垣は改変があるものの概ね残されている。
 ・御蔵口御門 -- 平屋の渡櫓門で二の丸上段の北側、鬼門櫓と乾櫓を結ぶ多聞櫓の中間にあり、二の丸上段と二の丸下段とを結ぶ門であった。門を出てすぐの場所に米蔵が建ち並んでいた。明治初期に取り壊された。門跡の石垣は崩され周囲も大きく改変されたため痕跡はほとんど残されていない。
 ・城米蔵(五千石蔵) -- 二の丸下段の北側にあった。幕府から預かった備蓄米を収めた蔵で享保17年(1732年)に対馬で起きた火事の救済や、享保18年(1733年)に長州で起きた飢饉の救済に拠出されている。ただし、後に米の備蓄は廃止され、寛延3年(1750年)には蔵の大半が取り壊された。明治初期までにすべて取り壊され、跡地の北側は明治時代に三蔵稲荷神社が建てられ、他の部分は明治23年(1890年)から梨園となったが、昭和初期に東半分に安部和助の別荘(現:福寿会館)が建てられ西半分にはテニスコートが造られた。また、往時は東坂三階櫓下の二の丸下段から城米蔵の敷地まで往来できるようになっていたが、途中に別荘に登る道路が敷設され分断されて通れなくなっている。周囲は以上のように大きく改変を受けたため遺構は何も残されていない。なお、昭和41年(1966年)の天守再建に際して南側に天守の礎石が移設されている。


 …と、こんな「二の丸北側」であります。
 そして、西側の入口から安部和助の別荘(福寿会館)庭園に入り、空襲遺跡に向かいます。

 ◆福寿会館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福寿会館(ふくじゅかいかん)は、広島県福山市丸之内1丁目の福山城公園内にある建物で昭和初期に個人の別荘として建てられ福山市の市史編纂室及び貸会議室や貸茶室として使われている。主に本館、洋館の2つの施設で構成され、両館含めていくつかの建物が国の登録有形文化財に登録されている。

 ・概要

 福寿会館は福山城の旧二の丸下段北側に位置し藩政時代には幕府から預かった兵糧米を収蔵する城米蔵があった場所に建てられている。明治時代にはこの周囲は民間に払い下がられ梨園となっていたが、1930年代、この東半分の場所に海産物商で削り節の考案者といわれ「鰹節王」と呼ばれた安部和助(あんべわすけ)により今日の福寿会館となる大規模な別荘が建設された。敷地面積は約7,400平方メートルあり平屋で和式の本館とこれに付随する木造2階建ての洋館(床面積約210平方メートル)、池泉回遊式庭園などで構成されている。また、東側には福山城二の丸の石垣を崩して新たに専用の道路が造られた。なお、この道路により二の丸東側と地続きであった敷地は分断されることになった。

 福山大空襲では隣接する福山城天守が焼失する中で罹災を免れ、その後、所有権は個人に移ったが、福山通運創業者渋谷昇が買い取り、1953年(昭和28年)に福山市に寄贈された。寄贈後は結婚式場として市民に開放され戦災の傷跡の残る福山市街にあって貴重な施設となっていたが、戦後の復興と共に役割を終え1973年(昭和48年)から洋館は市の迎賓館として、本館は貸会議室や貸茶室として用いられた。1992年(平成4年)には新市庁舎完成により洋館の迎賓施設は市庁舎へと移され、市史編纂室が設置された。その後、洋館は昭和初期の洋式建築として評価され1997年(平成9年)に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。2012年には本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵も同じく登録された。2008年(平成20年)に洋館の改修工事が行われ、市史編纂室を移転させて空調設備やトイレを整備するなどし、2009年4月1日に一般開放された。利用者は周囲に福山城御湯殿や月見櫓といった類似の施設が多くあることなどから年間5,000人程度と低迷していたが、市は洋館の開放により新たな観光スポットとして利用者の拡大を期待している。


 
◆福山空襲遺跡
 -- 空襲の炎で一部焼けた安部和助別邸 --

 現在、国の登録有形文化財となり、市民に親しまれている福寿会館は、「昭和の鰹節王」と呼ばれた安部和助により、1930年代に大規模な別荘として建設された。
 現存する和風本館、茶室、洋館の東側には、玄関、台所、洋風居間、和風居間などが配置された建物があったが、1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲により焼失した。
 敷地内には、空襲で破壊された玄関跡や破損した石段、炎で変色した石垣など、戦争の記憶を伝える遺構が今も多数残る。

 --- 2017年(平成29年)3月 福山市 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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