2021/12/12(日) ふくやまピース・ラボ主催「ピースウォーク」 <2/4>

 

 

 

 

 

 

 高野山福山別院を拝見し退散しようとしますと、入口に「福山空襲遺跡案内板」が設置されていますのに気付きまして、眼を向けますと、こんな記載が…

 
◆空襲の傷跡が残る高野山福山別院

 --- 福山空襲遺跡案内板 ---

 高野山は、平安時代の819年(弘仁10年)頃より、弘法大師「空海」が修行の場として開いた真言宗の本山で、比叡山(滋賀県)と並ぶ日本仏教における聖地である。
 高野山福山別院は、遍照山龍華院という。1884年(明治17年)8月5日の創建である。
 1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲によって本堂は全焼し、現在でも本堂基壇石む・鐘楼台座・手水鉢・本堂に通じる石畳などに空襲の傷痕が残っている。

 --- 2018年(平成30年)3月 福山市 ---


 …と、こんな記載がありました。
 高野山福山別院とお別れし、福山城の石垣方向に向かっておりますと、対面からエキゾチックと言うかレトロな車が走行です。
 時たま福山市内で見掛けますけど、この車はタクシー?…社有車?…スクールバス?…今度、機会がありましたら横から車体を狙ってみたいと思います(^-^)
 次に、福山城の石垣を見学です。ピースラボsanから貰った資料には、こんな説明が…

 ◆福山城石垣

 福山城は、徳川幕府の西国鎮衛の拠点として、1622年(元和8年)に初代藩主水野勝成によって創建され、間もなく400年を迎えます。
 福山駅北側道路沿いの石垣をよく見ると、高い所まで赤く変色し、石の角が丸くなっていることが分かります。福山空襲の際に起きた火災によって、石垣が高温の激しい炎に長時間さらされたため、石が赤く変色し鋭角だった石が丸く変化してしまいました。

 今まで何度も福山城の石垣は眼にしておりますけど、こぅしてジックリ眼にします事はありませんでしたネ。
 うん、うん、確かに、随所に空襲の傷痕が確認出来ます。それに、石垣の石は当初から角は丸かったものと思いましたら、激しい炎に長時間さらされたため石が赤く変色し、鋭角だった石が丸く変化しましたとは、知りませんでしたねぇ〜
 石垣の石の赤茶けた部分は、焼夷弾によるものと聴かされてはおりましたけど(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 JR福山駅北口の「月見櫓」下の石垣までヤッて来ますと、ここでは中国新聞sanがピースウォークの様子を取材です。何枚か画像に納めておられましたネ。
 GONsanは、この様子を後方からパチリです(^.-)☆
 この辺りの石垣は、空襲の傷痕が随所に残っておりまして、こぅして石垣に眼を向けておりますと、赤茶けた石の一つ一つが結構キレイで、美しくさえ感じられてしまいます。
 こぅいぅ眼で見ますのは不謹慎なのかも分かりませんけど…

 ◆福山城 月見櫓

 もと京都伏見城内にあったものを移築したもので、本来は着見櫓のことであるとも言われている。
 追手側(南側)も入江方面も展望できる南東隅に築かれ、藩主などの到着を見極める役割をなしていた。1階南側に石落としがあり(実際の石落とし機能は不明)、古い建築様式をもっている。
 明治初年頃取り壊されたが、昭和41年秋、天守閣とともに外観復元、現在は貸会場として利用されている。

 ◆月見櫓

 月見櫓も伏見櫓と同様に伏見城の櫓を移築したといわれる櫓で、2層2階建てで北側に附櫓を有していました。
 本丸の南東隅に築かれ、藩主などの到着を見極める役割をなしていたことから、本来は「着見櫓」のことであると考えられます。
 廃城に伴い、明治初年頃に取り壊され、跡地には1888年(明治21年)に福山公園(本丸)の活性化策として地元有志により「葦陽館」と呼ばれる貸会場が建てられましたが、福山大空襲で焼失しました。
 現在建てられている月見櫓は、1966年(昭和41年)の秋に、天守とともに鉄筋コンクリートで再建されたものです。ただし、古写真とは南側正面にある石落しの有無や窓の配置など大きく異なっているため、あくまでも復興櫓の扱いです。
 また、月見櫓も御湯殿同様、貸会場として利用されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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