2021/12/12(日) ふくやまピース・ラボ主催「ピースウォーク」 <4/4>

 

 

 空襲で破壊された玄関跡や破損した石段、炎で変色した石垣などを拝見後、安部和助別邸(福寿会館)とお別れしますと、三蔵稲荷の参道を抜け、福山城公園の北側にと向かいます(^.-)☆

 ◆三蔵稲荷神社

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 三蔵稲荷神社(さんぞういなりじんじゃ)とは広島県福山市丸之内の福山城北側にある稲荷神社である。

 ・概要
 境内には本殿、社務所のほか能舞台がある。福山市民の間での認知度が高く、また毎年ミス三蔵稲荷を選ぶコンテストが行われることでも有名である。
 祭神は宇賀魂大神・猿田彦大神・大宮女大神。

 ・ミス三蔵稲荷コンテスト
 ミス三蔵稲荷コンテスト(2005年)
 毎年11月に地元企業の協賛による「三蔵稲荷感謝祭・ミス三蔵稲荷神社ミスコンテスト」が開催されている。一般公募によって集められた27歳までの未婚の女性が自己アピールする1次審査と、2次では選抜された8人が実際に巫女装束に着替えて選考が行われる。ここで3人の女性がミス三蔵稲荷として選ばれ、副賞が授与されるとともに正月の初詣では巫女として奉職する。また毎年1月3日には地元カメラマン参加による「ミス三蔵稲荷撮影会」が開催されている。

 ・由緒
 書籍等でよく言われるのが、「初代福山藩主水野勝成の行列にいつ頃からか謎の侍が護衛に付き、名を尋ねると“城の北側に住んでおる三蔵と申す”と言い去った事に勝成が感銘を受け以後手厚く祭った」という内容の話であるが、現実的に考えれば藩主に正体不明の人物が護衛に付くことはありえず、これは阿部氏の時代(江戸後期)に福山藩が金を江戸に運ぶ際に担当者の夢枕に祭神が現れて“我は城内稲荷の神三蔵なり、道中無事に江戸に着くよう守る”と言った言い伝えが元になっているようである。

 

 

 

 

 GONsanは、皆さんにチョッと遅れて三蔵稲荷に立ち寄りです(^.-)☆
 境内では氏子の皆様が、忙しそうに年末・年始の準備中でありました。この様子を何枚かパチリ。初詣客をお迎えする準備も大変ですねぇ〜
 急いで参道を下り追い付きますと、福山城の崖を利用した防空壕の跡ですネ。

 ◆防空壕跡

 福山城公園内には、崖を利用した防空壕の跡が残っています。
 この防空壕は、近隣の人々が共同で造り、身を守るために利用していたそうです。現在は、崩落の危険があるために埋め戻されています。

 防空壕跡を拝見しますと、阿部神社前を通り護国神社方向へと戻ります(^-^)//"

 ◆阿部神社

 福山藩主阿部家の遠祖である人皇八代孝元天皇第一皇子高志道将軍、大彦命及び御子武沼河別命と豊韓別命3柱の神を主神とし阿部家中興の祖従五位下伊豫守正勝公を初め代々の祖霊を奉斎したもの。
 建立は八代の藩主従四位下待従備中守阿部正精公が文化9年7月久松城北にある小丘松山を開拓して工を起こし旧領内の住民こぞってこれが工役を援助しよく10年6月竣工したものである。明治10年旧社名「勇鷹神社」を「阿部神社」と改称して県社に列格した。なお、現在「県立青年の家」の場所には「松山天神宮」が水野家の創建で造営され門前町として天神町があったが、慶応4年辰年砲台築造のため「浜の護穀社」へ移転された。

 ◆広島県福山市鎮座の備後護国神社(阿部神社)

 備後護国神社 由緒 御神徳
 当神社は、昭和三十二年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。
 阿部神社の建立は、文化十年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。
 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。
 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。

 

 

 

 

 

 

 阿部神社の前を通り過ぎ、備後護国神社・慰霊碑へとヤッて来ました。

 ◆備後護国神社

 1868年(明治元年)福山藩最後の藩主阿部正桓が、岩見益田の役と箱館戦争で戦死した藩兵を祀るために、現佐の北吉津町の福山八幡宮境内に招魂社を創立したのに始まり、1893年(明治26年)に福山城本丸人質櫓跡に移され、1901年(明治34年)に「官祭福山招魂社」と改称されました。1939年(昭和14年)には、「福山護国神社」と改称され、現在の草戸町に広大な境内と運動場を有する神社として建立される運びとなり、太平洋戦争中も工事が進んでいましたが、完成目前の1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲により焼失しました。
 1957年(昭和32年)に阿部神社の地へ合併して「備後護国神社」として、備後地域の戦死者を祀り、現在に至っています。

 ◆慰霊碑

 慰霊とは、事故や戦争、災害などで亡くなった方などの霊を慰めるために建てられた石碑のことで、二度とそのようなことがないように戒めるものです。「メレヨン島戦没者慰霊碑」は、1966年(昭和41年)に建立され、メレヨン関係者の戦没者への慰霊鎮魂の象徴となっています。この島には、陸海軍合わせて約7,000人が「太平洋の防人」として守りに入りましたが、地上戦はありませんでした。
 また、日本からの食糧等の補給は潜水艦による4回しかなく深刻な飢餓が発生、さらに、熱病アメーバ赤痢等の風土病で犠牲者が続出し、わずか1年半で全体の8割近くの約5,000人の方が餓死病死者となり、戦わずして事実上の全滅をした悲劇の島と言われています。
 ※ メレヨン島 --- 第二次世界大戦中の呼び名。日本の南方のミクロネシア連邦に属するウォレアイ環礁のこと。


 慰霊碑の前では、太平洋戦争当時の「メレヨン島」の悲惨な状況のお話しがありました。
 WEB上で「メレヨン島」を検索しますと、メレヨン島からの生還者や戦没者遺族の皆様の色んな悲惨なお話しが…
 その中から、ウィキペディア「ウォレアイ環礁」を転載です。


 ◆ウォレアイ環礁

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ウォレアイ環礁(ウォレアイかんしょう、Woleai Atoll、北緯7度22分 東経143度54分)はカロリン諸島、ミクロネシア連邦のヤップ州にある22の小島の一群。オレアイ環礁、メレヨン環礁とも呼ばれる。

 ・概要
 東西8km、南北5kmの域内に点在し、各島海抜は1mから3mである。1979年にミクロネシア連邦に入った。ホテルやレストランなどはないが、高等学校がある。現在の人口はおよそ800名。
 第二次世界大戦中は日本軍の小規模な基地が置かれていた。日本軍の呼称はメレヨン島。絶対国防圏強化のため1944年(昭和19年)頃より兵力を増強する。当時の残留島民120名は南西端のフラリス島に集められ、隔離されていた。
 だが7月のサイパン島玉砕以後は補給が途絶え、兵員は飢餓に苦しんだ。結果的に日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅しており(守備隊約7,000名中、約5,000名戦病死)、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われている。

 ・歴史
 ウォレアイでは1913年にジョン・マクミラン・ブラウンによって、現地人によって書かれた固有の文字が発見された(ウォレアイ文字)。

 ・太平洋戦争

 第二次世界大戦中はメレヨン島と呼ばれて日本軍の基地となり、小規模の監視所が設置されていた。絶対国防圏の防御力強化、およびマリアナ諸島での戦いに備え、1944年(昭和19年)2月29日、第68警備隊・第49防空隊・第4施設部が「新興丸」でメレヨン島に到着、飛行場建設を開始する。3月1日附で第68警備隊・第49防空対は海軍第44警備隊(司令宮田嘉信海軍中)に改編される。当時の残留島民120名は南西端のフラリス島に集められ、隔離されていた。連絡には大発動艇を使用し、日本軍にとって貴重な食料を供給することもあった。

 4月7日、メレヨン守備隊は輸送船3隻(松江丸、木津川丸、新玉丸)に分乗し、護衛艦の駆逐艦3隻(水無月、夕月、他1隻)と共にサイパン島を出港する。だが米潜水艦(シーホース)の雷撃で「新玉丸」沈没、「木津川丸」大破の損害を出して、一旦グアム島へ避退。改めてメレヨン島へ向かい、4月12日に到着。南洋五支隊(川原健太郎大佐)が合流した。しかし、直後から米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒されて、折角作った飛行場も殆ど使われず(将兵の転勤等に利用)、食料の殆ど全てを揚陸直後に喪失してしまい、以後の日本軍は終戦まで極度の飢餓に苦しんだ。6月1日附で、南洋五支隊長は川原健太郎大佐(サイパンへ転勤)から北村勝三少将に交代。南洋五支隊も独立混成第五十旅団に改称された。

 輸送船による上陸と補給は、1944年(昭和19年)4月12日の「松江丸」(南洋五支隊上陸、前述)、4月14日の「山陽丸」(海軍第216設営隊978名、第58碇泊場司令部メレヨン支部6名上陸)、5月6日の「祥山丸」入港、5月14日の機帆船5隻入港(バタビヤ丸、神島丸等。海軍第59防空隊259名、第44警備隊増援隊上陸)、6月4日の「第一日章丸」入港(患者療養班40名上陸)、6月4日から6日の機帆船廻航班(神力丸以下10隻。帰路、全滅)、7月15日の病院船「氷川丸」入港にとどまった。なお、メレヨン島寄港時に氷川丸は機雷に触れ、小破している。

 7月中旬にサイパン島の日本軍守備隊が玉砕してサイパン島の戦いは終結、米軍はメレヨン島の日本軍守備隊を放置した。第31軍司令部の機能喪失により、メレヨン守備隊は在トラック第52師団長の指揮下に入った。 以後の補給は単独航行の潜水艦に頼らざるを得なくなり、1944年(昭和19年)10月28日の伊号第363潜水艦(糧食75トン・重油5トン揚陸、内地行き便乗者7名収容)、1945年(昭和20年)1月25日の伊号第371潜水艦、同年2月16日の伊号第366潜水艦(糧食・燃料補給。工員42名収容、3月3日呉着)、5月7日の伊369にとどまり、輸送任務に従事する潜水艦も安全とはいえなかった。

 内南洋方面離島18ヶ所(自給可能7、成果不十分ながら自活中4、自給極めて困難5、自給策立たず2)には約14万2,566名の将兵が展開しており(昭和20年4月14日軍令部調)、昭和20年初頭以降はトラック泊地(約4万4,000名)、メレヨン島(約4,500名)、ウェーク島(約4,300名)、南鳥島(約3,200名)の他、補給を行なえなかった。 中部太平洋方面の輸送任務で伊号第365潜水艦(昭和19年11月28日沈没)、伊号第362潜水艦(昭和20年1月18日沈没)、伊号第371潜水艦が失われた。特に伊362はメレヨン輸送のため昭和20年1月1日横須賀を出撃、1月18日(メレヨン島到着予定日の3日前)に米軍駆逐艦に撃沈されてメレヨン島に到着できなかった。伊371は1月25日にメレヨン島着後、トラック泊地へ回航。1月31日に同地を出発して横須賀に向かったあと、行方不明となった。また沖縄戦や本土決戦が視野に入ると輸送用潜水艦も次々に人間魚雷回天の母艦に転用され、中部太平洋諸島の輸送作戦に従事していた第七潜水戦隊は3月20日附で解隊。同日編成の第16潜水隊(伊号第369潜水艦、伊号第372潜水艦、波101、波102、波104)で細々と輸送が続けられた。

 上述のように、補給量は限定的であった。メレヨン島は、島全体が標高の殆どない珊瑚礁であるため農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなく、食糧生産もはかどらなかった。小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源であったという。潜水艦による4度の補給はあったものの(前述)、深刻な飢餓が発生し、終戦までに多数の餓死病死者を出している。自殺して戦病死扱いになった兵も少なくない。農作物窃盗による処刑や制裁、同士討ちによる死者もあった。

 上述の1944年4月の攻撃以降は米軍は本島を放置しており、以後は上陸作戦や艦砲射撃、大規模な航空攻撃といったものは行われず、たまにB-24リベレーター爆撃機が飛来して爆撃があるのみで、これに対し日本軍の高角砲は砲員の体力不足から1発を発射するのがやっとであった。

 1945年(昭和20年)3月11日夜、ウルシー環礁への特攻作戦「丹作戦」で特攻隊(銀河)を誘導した第五航空艦隊(司令長官:宇垣纏海軍中将)所属の二式飛行艇1機が着水、修理も燃料補給も出来ず水没処理された。宮田海軍守備隊司令は小森宮少尉他11名の搭乗員に対し、内地との連絡が遮断されて1年が過ぎ、暗号も更新されていないと伝えた。基地の兵は「毎日10名が餓死する生き地獄の島」とも紹介している。また北村陸軍少将が搭乗員に贈った黒塗りの箱にはサツマイモが入っていたが、これは同島における最高の褒章であった。飛行艇搭乗員は、5月7日(戦史叢書では5月10日)に、同島への補給に成功した伊号第369潜水艦に設営隊員50名と共に便乗し、同島を離れた。

 梓隊を含めた特別攻撃隊について、メレヨン島守備隊の将校が陣中日誌(昭和20年3月13日付)に以下のように記述している。

 ・復員

 終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、武装解除が行われる。9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港する。9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、26日に全員が下船。陸軍786名・海軍約840名が復員し、10月17日に残務処理が完了した。
 防衛庁戦史室の調査によれば、配備将兵6,426名(陸軍3,205名、海軍3,221名)中、死没者4,800名(陸軍2,419名、海軍2,381名)、生還者1,626名(陸軍786名、海軍840名)となっている。厚生省援護局資料によれば、陸軍総員3,404名・戦没2,533名・転属237名・サイパン後送62名・復員572名・別府入院患者207名。海軍第44警備隊資料では、海軍総員3,290名・戦病死2,253名・戦死175名・内地後送63名・復員799名。

 ・戦後

 1946年(昭和21年)、文部大臣安倍能成は雑誌『世界』2月号において「メレヨン島の悲劇」という記事を発表、メレヨン島生存者の手紙を引用しつつ「同島将校は食糧を独占してほぼ全員復員した」と述べる。現職文部大臣の執筆であるため、反響は極めて大きく復員局法務調査部が調査を開始した。調査の結果、戦況から違反者(食糧統制を乱す行為)に対する処罰はやむを得ず、将校に責任を問う根拠もなく、違法性なしという結論に至った。
 同年7月18日、メレヨン島海軍側指揮官宮田嘉信海軍大佐は自決。安倍大臣は時事新報(昭和21年7月20日附)に『メレヨンの悲劇について』を寄稿、幹部の「兵は唯己一人のみを考へればよかったが、将校には部下があり、任務があつて良心的将校は絶へず部下のこと、任務等が念頭を離れなかつたことを訴へたい」という主張を引用し、「さういふこともあらう。」と述べている。最高指揮官北村勝三陸軍少将は遺族への訪問を一年がかりで終え、1947年(昭和22年)8月15日に自決した。
 終戦後、メレヨン島守備隊関係者は六次にわたるメレヨン島訪問を実施。草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れた際、島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明したが、これは3月12日に水没処理された機体であり、搭乗員は潜水艦で帰還している。1966年(昭和41年)5月29日(慰霊碑文面4月10日附)、全国メレヨン会員一同によって福山市(備後護国神社)に慰霊碑が建設された。1974年(昭和49年)には札幌市、1982年(昭和57年)にはメレヨン島に慰霊碑が建立された。


 …と、こんな「メレヨン島」に関わります悲惨な歴史を知りますと、何とも言えません想いに包まれてしまいます。
 慰霊碑前での、当時の悲惨なお話しが終わりますと、今回の「ピースウォーク」もオシマイで、福山市人権平和資料館にと戻って来ますと、館長さんの閉会のご挨拶となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 福山市人権平和資料館から退散時に、希望者に配布された何枚かの資料の中に、「アメリカ軍資料に見る福山空襲」がありましたけど、仲々興味深い内容でありました。
 この資料に眼を通しておりましたら、ローカル都市・福山が、何で夜間に大空襲を受けましたのか、少し理解出来ましたような…
 この資料には、こんな記載が…


 ◆目標となった理由
 ・川西航空機の部品組み立て工場(三菱電機福山製作所)がある。
 ・およそ1〜1.5平方マイルの住宅密集地域がある。
 ・陸軍歩兵第41聯隊がある。
 ・日本の5大染料工場の一つである帝国染料工場と多くの小規模工場がある。

 ◆作戦任務第321号は、当初、昼間の爆撃が計画されていたが、出撃時に事故があり滑走路が使用出来なくなったため、夜間爆撃に変更された。
 ◇日本に対する攻撃が主として夜間の低高度からの焼夷弾攻撃になった理由
 ・日本の家屋は木造が多く、焼夷弾攻撃がきわめて有効である。
 ・日本軍には優秀な夜間戦闘機がない。したがって、低高度からの爆撃が可能である。
 ・低高度は風が弱く、レーダー照準が鮮明で、可能ならば目視により正確に投弾できる。
 ・低高度飛行は燃料消費が少なく、より多くの焼夷弾(1機当り平均6トン)を積むことができるので、効果的な打撃を与え得る。

 
…との事であります。
 ふ〜ん、そうでありましたか…この大空襲により色んなモノが破壊され消滅してしまいましたけど、う〜ん、せめて福山城は火災焼失から免れて欲しかったですねぇ〜
 当時の密集地域の73.3%が破壊されました大空襲でしたのですから、そぅもいきませんが…
 何もかも失ってしまいます悲惨な戦争…世界各地で未だに行われておりますけど、国際連合は、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として『世界人権宣言』を交付しております。この宣言通り、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏の無い世界の到来を、切に望みたいものであります。
 今回の「ピースウォーク」に参加の機会を得まして、少しだけ「世界平和」に眼が向きましたGONsanなのであります。
 それと、「歩兵第41連隊」ですか…この跡地には、GONsanが幼少時には、国立病院…広島大学福山分校…が、ありましたような…


 ◆歩兵第41連隊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 歩兵第41連隊(ほへいだい41れんたい、歩兵第四十一聯隊)は、大日本帝国陸軍にあった連隊のひとつ。

 ・沿革

 1896年(明治29年)- 深安郡(福山町)、(現在の福山市)に連隊本部を設置、12月までに第3大隊の編成が完了
 1898年(明治31年)3月24日 - 軍旗拝受
 1904年(明治37年)- 日露戦争に従軍
 1907年(明治40年)11月 - 第5師団から第17師団に所属変更
 1908年(明治41年)7月20日 - 深安郡野上村の新兵営に移転[1]。
 1925年(大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により第17師団が廃止のため第5師団に所属変更
 1937年(昭和12年)- 蒙チョウ作戦に参加
 1938年(昭和13年)5月 - 徐州会戦に参加、その後バイアス湾上陸作戦に参加
 1939年(昭和14年)- 山東省における匪賊討伐作戦、その後大連に移るも直ぐに華南に移動
 1940年(昭和15年)9月 - 仏印進駐
 1941年(昭和16年)第5師団は第25軍に加入しマレー作戦の準備を開始
  11月15日 - 上海を出港
  12月08日 - シンゴラに上陸
  12月12日 - ジットラ線を突破
 1942年(昭和17年)
  1月11日 - クアラルンプールを占領
  2月 - シンガポール入城
  3月 - フィリピンパナイ島へ移動、ミンダナオ島平定作戦に参加
  7月 - 南海支隊に編入されポートモレスビー作戦に参加
  8月 - ラバウル経由でニューギニア島に上陸、オーエンスタンレー山脈超えを目指すが激戦の末に全滅寸前にまで追い込まれる
 1943年(昭和18年)8月 - 第5師団から第30師団に所属変更
 1944年(昭和19年) - ミンダナオ島からレイテ島に上陸、アメリカ軍と激戦を繰り広げる
 1945年(昭和20年)1月 - カンキポット山地で自活態勢に入る
  7月15日頃 - 連隊長が軍旗を奉焼し、自決したと言われる

 ・備考

 歩兵第41連隊が玉砕したとされるフィリピンのタクロバン市と連隊本部のあった福山市とは、その縁によって姉妹都市提携がなされている。
 大岡昇平の『レイテ戦記』では、陣地構築も怠って容易に敵の進出を許し「ほとんど戦っていなかった」と酷評されているが、アメリカ陸軍第1騎兵師団戦史には「脊梁山脈での戦闘は、レイテ作戦においては特筆すべき勝利となった。険しく深い密林地帯が広がり、雨と泥でぬかるんだ地形にも負けずによく敢闘した」と第41連隊との激しい戦闘があったことを伺わせる記述があり、福山市議が現地で行った発掘調査では山中に布陣していたことを伺わせる遺物が発見されている。
 レイテ島カンギポット山付近で自活自戦した他の部隊と同様、歩兵第41連隊の終末の模様も明らかでない。昭和20年5月一杯はビリヤバ付近で戦闘し、その後カルブゴス山方面に移動したが、6月中旬頃には連隊の生存者は約80名となり、半数は患者で行動不能、残る半数も辛うじて行動できるという状況だったと言われる。
 7月5日に重傷を負い米軍に収容された佐々木ェ平大尉(連隊砲中隊長)の証言によれば、最後の連隊長である炭谷鷹義大佐が同日まで生存していたことは確実であり、その後、7月15日頃に連隊長は軍旗を奉焼し、自決したとの伝聞がある。
 福山市に居残っていた兵士は、8月6日に広島市へ原子爆弾投下を受けて救援に向ったが、残留放射能による二次被爆によって犠牲者も出た。また施設自体も8月8日の福山大空襲の被害を受けた。
 第41連隊の連隊本部跡には、戦後バラ公園が設置されたほか、兵舎を利用して広島大学福山分校が開校した。大学の東広島市移転後は緑町公園となっている。また敷地跡にあるJA福山市の敷地内に連隊跡を示す記念碑が建立され、記念碑の脇には司令部の門も保存されている。また連隊の慰霊碑は備後護国神社敷地内に建立されている。

 この日の「ピースウォーク」の様子は、2022年1月19日の中国新聞san朝刊に、チョッとだけ記事掲載がありましたネ(^.-)☆

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