2021/11/16(火) 紅葉を求めて佛通寺散策 <3/6>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 境内の「順路 →」の案内表示に従って、次は、「禅堂」に向かってみます。
 禅堂に関しましては、こんな説明文が…

 ◆禅堂(ぜんどう)

 昭和初期、尾道出身の資産家で篤信家の山口玄洞氏の寄進によって建てられた。台湾檜の良材を使った堅牢な建築で、簡素ながら細部の意匠も精緻である。
 この禅堂は「獅子窟(ししくつ)」と称し、佛通寺第三代管長山崎益洲老師筆の扁額が前門に掛けられている。


 …との事で、「尾道出身の資産家で篤信家の山口玄洞」sanとは、どんな方なのだろう…と、WEB上で検索してみましたら、こんな方でありました。

 ◆山口 玄洞

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 山口 玄洞(やまぐち げんどう、文久3年10月10日(1863年11月20日) - 1937年(昭和12年)1月10日)は、日本の実業家、帝国議会議員。広島県尾道市出身。大阪府平民[3]。大阪府多額納税者。且R口玄創業者。尾道市名誉市民。

 ・来歴

 文久3年(1863年)、備後国尾道久保町(現広島県尾道市久保2丁目)で医業を営んでいた山口寿安の長男として生まれる。幼名は謙一郎。山口家は尾道に土着して以降代々医業と副業で醤油販売業を行なっていた。
 明治4年(1871年)9歳の時に父により愛媛岩城島にあった漢学塾「知新館」に学びに出されるも、在塾中の明治10年(1877年)15歳の時に父が急死したため退塾し尾道へ戻る。そこからは学業を諦め、家計を支えるため尾道で行商を始めることになる。
 明治11年(1878年)、大阪心斎橋筋にあった洋反物店「土居善」へ丁稚奉公に出る。呼び名は清助。その仕事ぶりから店主に信頼を受けたものの、明治14年(1881年)土居善は倒産し閉店することになった。そこで取引先との縁で一旦鳥取を拠点に商いを始める。
 明治15年(1882年)、大阪伏見町(現中央区)で洋反物仲買「山口商店」を独立開業する。次第に経営を軌道に乗せると、尾道から母と弟妹4人を大阪に呼び寄せる。当初は輸入織物のモスリンを扱っていなかったが、苦労と幸運が重なり神戸のイリス商館の輸入モスリンを独占販売できることとなり、更に営業規模を拡大していく。日清戦争では軍需品として洋反物は更に売れた。
 明治29年(1896年)34歳の時、山口家四代目として正式に家名を継ぐこととなり「玄洞」の名を襲名した。
 明治37年(1904年)、多額納税者となったことから同年9月貴族院多額納税者議員に互選、明治39年(1906年)9月に辞任した。

 日露戦争以降には国内製織の海外への輸出もするようになると、更に業績を伸ばす。また三十四銀行取締役、大阪織物同業組合初代組長、共同火災監査役、など歴任し、泉尾土地会社・尼崎紡績および大日本紡績(現ユニチカ)・毛斯倫紡績・大阪商事などで重役としても活躍した。大正元年(1912年)、業務拡大に伴い現在の大阪備後町に店舗を新築する。業務拡大したことにより時々不眠症にもなってしまったため、大正6年(1917年)56歳で実業家としては引退し、店を株式会社化し社業を幹部に一任するようになった。
 引退後は時折助言はするものの社業にタッチすることなく京都の本邸で静養生活に入り、また信仰に没頭し後述のように資産の多くを寄付に使う。数寄者としても過ごし表千家後援者としても活躍した。
 昭和12年(1937年)死去。墓は大徳寺塔頭龍翔寺と、死の数カ月後に分骨された故郷尾道の西國寺。遺誡は「人間は努力次第で何事も成就しないことはない。怒れる竜の口中の玉でも容易にとることができる」であった。昭和42年(1967年)『尾道市名誉市民条例』が定められた時、尾道市上水道に対する多大な寄与が主な理由で、平山角左衛門、三木半左衛門と共に名誉市民に選ばれた(後に小林和作が加わる)。

 ・寄付

 玄洞は大阪で財をなしたころから、その多くを関西や尾道の公共事業や慈善事業、寺社に寄付した。大正・昭和における寄付金王とまで言われている。記録に残る主なものだけでも147件の寄付・寄進をしている。建設には安井楢次郎技師を顧問に迎え、新築だけでも100件ほどある。
 初期は特に教育関係、ついで病院・水道などの社会事業関係、そして災害の義捐関係が目につき、その他軍関係にも僅かながら寄付をしている。その後京都に隠居し、仏教を篤く信仰するようになると、次第に寺社への寄進にのめり込んでいく。ひと度伽藍寄進の評判がたつと、玄洞のもとには伝手を辿って嘆願が殺到した。そこで玄洞は、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、景勝の地にある事、住職の人品が優れている事、の3つを条件にしたという。景勝地が条件に挙げられているのは、玄洞が大衆を教化する一つの方法として、悪人でも襟を正すような聖地に美しい伽藍を作り境地説法するのが効果的だと考えていたためである。
 その金額は、育英・慈善関係で二百数十万、寺社関係では三百万を優に超えることから、総額は五百数十万円にものぼる。玄洞のこうした常軌を逸した寄付をする精神的背景には、『碧巌録』にある「無功徳の精神」があったとも言われる。世間では富豪の道楽と見る向きも少なくなかったが、玄洞はこれを聞くと、「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄附することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語ったという。


 …と、こんな人物でありました。
 ついでに、「山崎益洲」sanも検索です(^-^)

 
◆山崎 益洲(読み)ヤマサキ エキジュウ

 明治〜昭和期の僧侶 臨済宗仏通寺派管長。
 生年:明治15(1882)年11月3日
 没年:昭和36(1961)年12月31日
 出生地:京都府
 本名:山崎 大耕
 旧姓(旧名):中川
 経歴明治21年6歳で得度。のち兵庫県常光般若林に学び、京都天竜寺で高木台岳について修禅20余年。大正12年臨済宗天竜寺僧堂師家となり、次いで同宗仏通寺派専門道場師家、昭和4年仏通寺派管長となった。
 仏通寺住職。20年10月〜21年4月同宗十三派管長。のち仏通寺を退山、広誠院に住んだ。著書に「般若心経解説」「大道を行く」など。


 …と、こんな方でありました(^-^)//"

 

 

 研修道場入口には、使いこなされた年期を感じさせます「板木」が…大概、右手で打ちますから右半分が窪んでおりますネ(^.-)☆
 この板は何と言いますのかWEB上で調べてみますと、「板木」と言うようですねぇ〜

 
◆板木

 板木(ばんぎ)は、玄関脇や露地腰掛に吊り下げ、到着や連客の揃ったことを知らせるための木製の板です。
 板木は、「版木」とも書き、「はんぎ」ともいい、「木板」(もくはん)、単に「板」(版)などともいいます。
 板木は、厚い堅い材質の木製の板の上辺を隅切りした長方形のもので、上辺二ヵ所に紐を通して吊り、左手で支えつつ丁字形の木槌で中央を打ちます。
 板木は、本来は寺院で用いる鳴物(ならしもの)の一種で、ふつう僧侶の日常的な諸作法の合図として用いられます。


 GONsanも30歳前後の時でしたか…ここで、座禅を組んだ事がありますけど、既に40年余り昔の事となりますが、チョッと懐かしさが(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 この、枯山水の庭園ですけど、和尚さんは学童の皆様に、こんな説明をしておられました(^.-)☆

 枯山水(かれさんすい)の庭園を観賞したことはありますか?枯山水は、石や砂などを用いて水が流れる風景を表現した庭園です。
 枯山水は、水がない場所で石や砂、植物、地形を利用して水の流れを表現した日本の代表的な庭園の形式です。枯山水は「かれせんすい」や「かれせんずい」、「こせんすい」とも読み、平安時代の書物では「こせんずい」と説明しています。他に乾泉水(あらせんすい)、涸山水(かれさんすい)、仮山水(かさんすい)、故山水(ふるさんすい)などの呼び名もあります。
 庭園の要素で分類するときは「枯山水庭園」と呼び、池をメインとする「池泉(ちせん)庭園」、池や林、茶室などを設けた「築山林泉(つきやまりんせん)庭園」と区別します。
 枯山水は時代や造園の方法によって異なり、植物と石が織りなす色の対比や、石や砂だけの静かな佇まいを楽しむことができます。
 白い砂に描かれた線は、「砂紋(さもん)」と呼ばれる模様です。砂紋は穏やかな流れだけでなく、大波やうねり、市松模様や「井」の模様のほか、悟りや心理、世界観や宇宙観も表す渦巻きもあります。
 この庭園には、時たまイノシシが出没して来て大変な状態に陥ることがあります。
 砂の細やかな表現は日本人の繊細な感性によるもので、質素と静寂、清らかで澄み渡った侘び・寂びの美意識が伝わります。砂紋を清掃することは心を清めることに通じるとされ、禅を学ぶ僧侶(そうりょ)が、毎朝、ホウキやレーキで美しく整えています。


 …と言うような事を、分かり易い言葉で学童の皆様に(^.-)☆
 …と言う事は、僧侶の皆様も美意識は各人各様ですから、僧侶が交代しましたら、砂紋も日々異なりますのでしょうねぇ〜
 時間的にヒマでしたら、この「砂紋」を同じアングルで、毎日、撮り続けてみたい…こんな衝動に駆られますGONsanなのでありました(^-^)//"

 

 

 

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