2019/10/19(土)〜10/20(日) 挙式列席で京都行きとなりました(^.-)☆ <3/15> |
硅灰石の後方から、周辺の景観をパチリです(^.-)☆
・石山寺経蔵
石山寺は紫式部が源氏物語の構想を練った寺院として知られる古刹で、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸に位置している。
経蔵は三十八所権現社本殿の背後に建つ校倉の建物で、淳祐内供筆聖教(国宝)などが収蔵されてきた。全国的にも類例の少ない切妻造の校倉である。
・紫式部供養塔と芭蕉の句碑
芭蕉の「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」の句碑。芭蕉は紫式部源氏の間を見て「紫」をかけて詠んでいる。
その左に紫式部供養塔。これは、石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代の作だそうで、一番下層の4面に仏像が浮き彫りにされています。
・多宝塔(国宝)
1194年建立で、日本最古の多宝塔といわれている。
石山寺は、聖武天皇の勅願により天平勝宝元年、良弁僧正を開基として開かれた寺院である。 また、紫式部が参籠して『源氏物語』を書きはじめたとも伝わる。
多宝塔は建久5年(1194)建立で、年代の明らかで大規模な改修を行っていないものの中では、日本最古である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。もちろん国宝に指定されています。
和歌山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)多宝塔、大阪・慈眼院(じげんいん)多宝塔に並び、日本三名塔のひとつにも数えられています。
・鐘楼(石山寺鐘楼の概要)
石山寺は大津市石山寺一丁目にあります。『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「屋根は入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひわだぶき)、袴腰(はかまごし)を漆喰塗(しっくいぬり)とした鐘楼で、鎌倉時代後期の建立とみられている。
上層の平面は正面の柱間数3間で4.56m、側面2間で2.85m。下層の柱上に台輪をめぐらし三手先(みてさき)組物で縁をうける。上層の組物も三手先であるが東大門と同じく尾垂木をもちいていない。全高は11.13mであるが、上層の組物には隅にも拳鼻(こぶしばな)をつけ、隅柱は少し長くして軒反りを美しくし、間斗束(けんとづか)は垂直であり、組高欄の端の切り方(角度)など古式があってみるべきものがある。重要文化財。(成瀬弘明)」とあります。
・めかくし石
目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うと伝わり、ここも人気のパワースポットなのだとか。
多宝塔には「落書厳禁」の注意看板が(^-^)
こんな国宝に落書きする人は居ないだろう…と思いながら、よくよく見てみますと、扉の部分に確かに落書きが(^-^;
心ない方もおられるのですねぇ〜国の宝の『国宝』だと言いますのに…
◆源頼朝・亀谷禅尼供養塔
多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。
亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に住し石山の尼と呼ばれ、宝塔院を建立して本尊大日如来の胎内に頼朝の髪の毛を納めて日々勤行を為し、頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を沙汰したと伝えられています。この二人のために、後世の人が供養塔を建立したと考えられ、亀谷禅尼供養塔は南北朝、源頼朝供養塔はそれに続く時期のものです。
指定区分 -- 重要文化財(亀谷禅尼供養塔)
所在地 -- 滋賀県大津市石山寺1-1-1
◆若宮
大友皇子を葬ったとする場所がここにも!
「若宮」は説明の文字通りの解釈では三十八所権現の子供になるが非業の死をとげた祟る子・人を祀るという話もある。壬申の乱は672年、石山寺創建が天平勝宝元年として749年で、良弁開基時に大友皇子の墓が既にここにあった?まあ、そういう後付の伝承なのでしょう。何故2002年に建立したのだろう?…と、WEB上には、こんな記載がありました(^-^)
◆心経堂
心経写経の永久保存のために建立されたもので、堂内には、ご本尊の「如意輪観世音菩薩半跏像」が安置されています。
心経堂からは、豊浄殿へと進行です。ここでは、「石山寺と紫式部展」が開催中でありました。
中に入ろうかな…と思いましたら、有料でありました。入館料は300円でありましたけど、有料ですから入館は断念(^-^;
で、次は「光堂」へと向かおうとしていますと、GONsan世代のご夫婦と擦れ違いです。その際に「豊浄殿・紫式部展は、どぅでした?」と尋ねられましたので、「有料でしたから入館しなかったのですよ…」と返しますと、「じゃぁ、私達も止めとこう…」ですから、「入館料は300円と安価でしたよ…」と、付け加えますと、「入門料と合わせると高くなるから、止めときます」でありました(^.-)☆
「紫式部像 →」の表示に従って「光堂」へ。
◆石山寺豊浄殿
石山寺多宝塔の北西、境内の最も高いところに新設された宝物館です。毎年春と秋の2回、石山寺に残されている宝物を紫式部などのテーマ別に一般公開します。
◆光堂(こうどう)
石山寺の「光堂(こうどう)」は、この平成20年に落慶。東レ株式会社の寄進により、古来の伝統的建築技法のままに、懸崖造り(舞台造り)で建立された、新しくて格式の高いお堂です。
光堂方向へは、5人のご家族連れが先行でしたから、この方達に付いて光堂へ。到着と同時に「紫式部像」を求めて周辺をキョロキョロ。そうしますと、また「紫式部像 →」の表示板。う〜ん、ここからまた少し下った場所にありますようですねぇ〜
また、このご家族連れの後方を(^-^)ほどなく「紫式部像」に到着です(^.-)☆
◆紫式部像
西国三十三所霊場のひとつで古くから観音信仰で名高い、滋賀県大津市にある石山寺は寛弘元年(1004年)、紫式部(むらさきしきぶ)が堂内に籠もり『源氏物語』須磨・明石の巻を綴った場所と伝えられます。境内の高台には源氏苑が整備され、紫式部の像も立てられています。『源氏物語』の執筆中に筆を止めて、これからの構想をかんがえてる場面でしょうか。
境内には鎌倉時代の作で重要美術品に指定される紫式部供養塔がああるほか、本堂相の間には「源氏の間」があり、『源氏物語』を執筆した紫式部の姿が人形によって再現されています。
石山寺の寺伝などでは、寛弘元年(1004年)、紫式部がここで7日間参籠し、琵琶湖の水面に映える月を見て、着想を得たとされています。
室町時代に記された源氏物語の古注釈書『河海抄』には、八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた紫式部の脳裏にひとつの構想が浮かび、源氏物語は書き始められたとされていますが、史実なのか、後世の創作なのかは定かでありません。
主人公・光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる)は近江大津に閑居を設け、その跡地に融神社(とおるじんじゃ/大津市伊香立南庄町)として祀られています。
そして「横川の僧都」(よかわのそうづ)は比叡山延暦寺の高僧、源信(恵心僧都)ではないかと推測されています(諸説あります)。
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