2019年 晩秋の北房路(真庭市)古墳巡り <4/9>

 

 

 センター内に入りますと、「定北古墳」から出土の陶棺に圧倒されてしまいます。
 1階展示室には、その他にも色んな出土品が展示されておりましたけど、皆さん、興味深く見つめておられました。勿論、GONsanも同様でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふ〜ん、この陶棺には文字『記』の記載がありましたのですネ(^.-)☆
 それにしましても、この地では、実に優秀な人材を輩出しておられますようですネ。展示室内には「箕作秋坪」「菊池大麓」のお二人の功績の紹介が…

 
◆箕作秋坪

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 箕作 秋坪(みつくり しゅうへい、文政8年12月8日(1826年1月15日) - 明治19年(1886年)12月3日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家。名は矩、通称は文蔵。号は宜信斎。

 ・生涯

 文政8年(1826年)、備中国(現・岡山県)の儒者・菊池陶愛(菊池應輔亮和の婿養子である医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。名は文理。通称は士郎。)の次男として生まれた。
 はじめは美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。嘉永3年(1850年)、阮甫の二女・つねと結婚して婿養子となり、つねとの間に、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者の大麓(秋坪の実家・菊池家の養嗣子)、三男・動物学者の箕作佳吉、四男・歴史学者の箕作元八の4男をもうけた。

 幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事する。安政6年(1859年)、幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1861年)の幕府による文久遣欧使節に福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察する。慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣される。

 明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず、三叉学舎を開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などもここで学んだ。また、日本初の本格的私立法律・経済学校である専修学校(専修大学の前身)の開設においても、法律経済科を設置し創立者である相馬永胤らに教授を任せるなどの協力をしている。明治12年(1879年)、教育博物館(国立科学博物館の前身)の館長となり、従五位に叙せられた。明治18年(1885年)には東京図書館(帝国図書館及び国立国会図書館の前身)の館長も務めた。東京師範学校摂理も務めた。
 また、明治6年(1874年)、森有礼らと明六社を創立してまもなく社長に就任する。明治12年(1879年)、福澤諭吉、西周、加藤弘之らとともに東京学士会院の創設に参画し、創立会員7名の一人となる。

 秋坪は古賀?庵に学んだ漢学の大家でもあった。教育者として、秋坪は2・3歳から6・7歳までの児童を教育することが最も効果的だと主張し、教育能力を欠く家庭の父母、特に女子への教育の重要性を説いた。
 妻・つねの死後、その妹で箕作省吾の未亡人であったしん(ちま、阮甫の三女)と再婚。しんとの間には長女・直子(人類学者の坪井正五郎に嫁ぐ)をもうけた。
 明治19年(1886年)、肺炎のため死去。

 ◆菊池大麓

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。
 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。

 ・生涯

 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。
 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)と1870年(明治3年)の2度に渡り英国に留学した。2度目の留学ではケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学と物理学を学び学位を取得した。ケンブリッジ大学を卒業した初めての日本人留学生となった。

 帰国後の1877年(明治10年)、東京大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任し、1902年(明治35年)には男爵を授爵された。福澤諭吉とは知己の仲で、1874年(明治6年)には福澤に招聘されて明六社に参加、福澤がその後に設立した交詢社にも発足時常議員としてもその名を連ねている。1889年(明治22年)には帝国学士院の前身・東京学士会院会員に選任された。

 英国留学中には高校大学を通じて相関係数で有名なカール・ピアソンと同窓で親友となり、帰国後ピアソンの編集した本を日本で翻訳出版している。1884年には、グリニッジ子午線を経度0と決めた国際子午線会議に日本の代表として出席している。

 菊池は数学者・教育者であるとともに政治的手腕もあった。1890年(明治23年)9月に貴族院勅選議員に勅任されると研究会に所属して、1912年(明治45年)5月に枢密顧問官に勅任されて議員辞職するまで22年間国政に参画した。この間、文部省では専門学務局長から、1897年(明治30年)11月から翌年5月まで第2次松方内閣から第3次伊藤内閣にかけての文部次官となり、浜尾新・西園寺公望・外山正一の3大臣を補佐、1901年(明治34年)6月には第1次桂内閣の文部大臣を拝命して翌年7月まで国政の枢機に携わった。1913年(大正2年)6月には京都帝大の名誉教授となっている。枢密顧問官は1917年(大正6年)8月に死去するまでつとめている。このほか帝国学士院でも1909年(明治42年)に第2代院長に選ばれ、死去するまでその任にあった。

 1917年(大正6年)7月下旬より避暑で茅ヶ崎の別荘を訪れていたが、同年8月19日に新聞を読んでいる最中に脳溢血を起こし、医師による応急治療を受けたがそのまま死去。

 ・逸話

 ケンブリッジ大学時代は数学で常に首席を占めていたため、他のイギリス人学生から嫉視されていた。あるとき大麓が風邪をこじらせて入院すると、イギリス人学生たちは示し合わせて大麓が欠席中の講義ノートを彼に貸さないことにした。それによっていつも2番目の成績だったブラウンという秀才を首席に押し出そうという企みだったが、当のブラウンは病院の大麓を毎日見舞って清書した当日のノートを彼に渡していたため、結局大麓の首位は動かなかった。大麓はその後ことあるごとに「ブラウンの高潔なイギリス魂ほど私を深く感動させたものはない」と当時を回想していたという。

 この留学中の1872年にはラグビーの試合に出場したことが記録に残っており、菊池が日本人初のラグビープレイヤーだったことも想像に難くない。


 …と、こんな人物のようであります。

 

 

 

 

 

 

 

 この巻物絵図は大変丁寧に描かれておりまして色彩もキレイ。尾張徳川家への奉納品との事でした。
 1階の展示室内を見終えますと、次は2階の展示室へ…ここには、弥生時代(後期)の焼けた米とか、後で訪れます大谷1号墳から出土の「金銅装環頭太刀」等の展示品がありまして、仲々興味深いものでありました(^.-)☆

 

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