備陽史探訪の会 バス例会
2019年 「吉田郡山城 & 多治比猿掛城」の山城歩き <3/8>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結構キツい上り道でしたけど、どうにか多治比猿掛城跡にと到着です(^_^)v
 それにしましても皆さん、よく歩かれます。上り口付近では、この方達は城跡までチャンと上がれるのだろうか…と心配しておりましたけど、これは大変失礼なGONsanの想いでした(^-^;
 仲々山城歩きに手慣れておられました。歩調はユックリしておられましても、シッカリ着実に進んで行かれますので脱帽です。GONsanの方が、もぅ負けそうでありました(^.-)☆

 
◆安芸・多治比猿掛城

 ・歴史

 築城年代は定かではないが明応年間(1492年〜1501年)に毛利弘元によって築かれたと云われる。毛利弘元は毛利元就の父であり、明応9年(1500年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城へ移った。
 永正3年(1506年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領を受け継いで分家となった。永正13年(1516年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継いだが幼小であったため元就が後見人となった。
 大永3年(1523年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城した。

 ・ 説明

 多治比猿掛城は多治比川南岸の標高432mの山を最高所として築かれている。大きく本丸、物見丸、寺屋敷曲輪群、出丸の四ヶ所に分かれている。
 本丸は北東の標高370m一帯で、北端に五角形の櫓台を備えた南北に長い曲輪となり、南端には土塁がある。本丸の南背後の尾根は大堀切(堀1)と堀切(堀3)の二条の堀切があり、その間の鞍部は東西両側に無数の連続竪堀を落としている。尾根上には一部コブ状になった部分があり、本来連続堀切であったものが遊歩道などによって削られ現状の土橋状の細い道のようになったとも考えられる。竪堀は特に西側に長く延びており、途中に合流して落ちている。
 本丸から北東へ伸びた尾根の曲輪I-7があり、二段の非常に小さな曲輪であるが、両側面と前方に竪堀を配している。
 寺屋敷曲輪群は教善寺を含む一帯でII-1の広い曲輪を最高所として段曲輪が多く残る。
 出丸は北へ付きだした丘陵で、この部分は後世の改変が激しいのか、南北に伸びる土塁状の遺構や大きく窪んだ虎口のような地形などがあるが、本来の形状はイマイチ把握できない。
 本丸の南背後から登り詰めた標高432m付近に物見丸がある。単郭で本丸側の北東と南尾根を堀切で遮断しており、北西下には帯曲輪状の地形がある。


 …と、「城郭放浪記(http://www.hb.pei.jp/shiro/aki/sarukake-jyo/)」と言うホームページには、こんな記載がありましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 本丸跡には、こんな案内板が…

 
◆多治比猿掛城本丸跡

 猿掛山の頂上(標高376m、比高120m)に位置し、長さ50m、幅24mの長大な平垣面を持つ。
 南側背後は、約13mの深い堀切で背後の尾根続きをさえぎっている。三方は急峻な崖で東側に一段、南側に四段の付曲輪がある。
 本丸平垣部南端に長さ約20m、高さ、幅とも約1mの土塁がみられる。北端には約10m四方で、約3m高い盛土があり、櫓台として使用したものと思われる。
 ここからは、南を除く三方が見え、石州路に沿う要衝の地であった事が伺える。東側からは、約4km離れた郡山城が望まれる。

 -- 平成2年3月 吉田町教育委員会 --


 …と、こんな案内がありました(^.-)☆
 暫し、多治比猿掛城本丸跡を見廻って、今度は下山です。上って来ます時には、結構な急勾配で少々キツい歩行でありましたけど、さすがに下山は楽。ですが、油断しますと足が滑りますので、それなりに用心しながらの歩行が続きます。
 途中、また案内板がありまして、往路では、復路で確認しようと思っていましたので、下山時に立ち寄りとなりました。この案内板には…

 
◆寺屋敷曲輪群

 この曲輪群は、中心部曲輪群の西端から造られた幅6mないし7m、深さ2m、長さ約130mに及ぶ長大な堅堀によって、中心部曲輪群から隔てられ、中心部曲輪群より60m下方にある。
 曲輪群は、上方中央には面積約860uの広大な曲輪(寺屋敷)を中心に、北方に階段上の曲輪が4段、それをとりまく帯曲輪が8段、さらに上方に3段の計15段からなっている。
 現在、この曲輪群の下段には猿掛山教善寺が建っており、当初からこの段を含めた一帯が寺屋敷曲輪群として使われていたのかも知れない。
 この曲輪群は、急斜面に平坦面を造成し、防禦としては堅堀しかないということから、当初から城としてより、寺屋敷として造られたとも考えられる。

 -- 平成4年3月 吉田町教育委員会 --


 …と、こんな記載がありました。
 それにしましても、皆さん、結構、不安そうに感じられます歩行なのですけど、普段からこぅした山歩きには慣れておられますのかも…上り口まで下りて来ますと、誰一人遅れます事も無く無事に下山。
 う〜ん、意外と皆さん健脚でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

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