備陽史探訪の会 バス例会
2019年 「吉田郡山城 & 多治比猿掛城」の山城歩き <2/8>

 

 

 

 秋本哲治さんに、まず館内をご案内して頂きましたが、平成20年01月に発見されました前方後円墳「甲立古墳」は、県内では最大級の規模で、今では国史跡に指定。
 3次元レーダー測量図では、畿内地域の古墳とよく似ておりますねぇ〜
 技術の進歩で、今では全体を発掘調査しなくても概要は把握出来ますのですねぇ〜凄い\(^o^)/

 
◆甲立古墳(甲田町)

 甲立古墳は、平成20年1月に甲田町上甲立菊山の山林で新たに発見された前方後円墳です。全長は77.5メートルに達する、県内では最大級の規模です。平成28年3月に国史跡に指定されました。

 平成22年度から25年度まで実施した発掘調査では、傾斜地上に築かれた均整がとれた墳丘、隙間なく葺かれた精緻な葺石、実際より大きく見せる大規模造成など、高度な技術で墳丘が築造されていることを確認しました。
 後円部墳頂では、中央に5基の家形埴輪を一列に並べた石敷区画や数種類の埴輪で構成された埴輪列などで、築造当時に並べられた埴輪の配列を良好な状態で確認することができ、古墳祭祀、埴輪祭祀を研究する上で極めて重要な調査例となりました。
 出土した埴輪は、切妻造高床建物の1・2号家形、特異な形の囲形状、出土例が極端に少ない子持家形などの家形埴輪をはじめ、船・甲冑・蓋など器材埴輪、普通・楕円・朝顔形などの円筒埴輪がありました。
 いずれの埴輪も端正な作りで、埴輪を製作した工人の技術の高さを示しており、当時の中心地であった畿内の中枢で出土した埴輪と近似します。これらのことから甲立古墳は4世紀後半に畿内の勢力が深くかかわって築造されたと考えられます。

 山間に築かれた4世紀後半の畿内色の強い前方後円墳は全国的にあまり例がなく、当時の社会情勢や畿内勢力の動向を知るうえでも貴重な資料と考えられています。

 ・概要

 4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、安芸高田市教育委員会が広島大学考古学研究室に依頼した測量調査によって、2009年11月に確定に至った。
 この菊山付近には、安芸国の国人領主・宍戸氏の城であった柳ヶ城があり、古墳はその一部と見なされており、上記調査までは古墳として認識されていなかった。柳ヶ城の調査を担当した東広島市教育文化振興事業団の指摘などによって、2008年2月に調査が開始され、古墳と確認された。

 調査古墳は菊山中腹斜面に築かれており、前方部分が南、後円部分が北に配置されている。広島県内では最古の時期のものとされ、推定されるその規模は全長75m、高さは約13m。三ツ城古墳(5世紀、全長92m、東広島市、国の史跡)、辰の口古墳(4世紀後半、全長77m、神石高原町、県史跡)に次ぐものである。また、古墳側面の斜面部分には川石を使った葺石が施され、埴輪が配置されていたことも判明した。

 2010年より発掘調査が行われ、それに併せて市指定史跡として指定された。その後、2016年3月に国の史跡に指定されている。

 ◆家形埴輪

 石敷区画に並べられていた家形埴輪は切妻造高床建物2、特異な形状の囲形状、他のものより小型の家形2で、いずれの埴輪も写実的でシャープな仕上がりであることから、高度な技術持った埴輪工人が製作に携わったと考えられます。
 また、後円部墳頂中央の浅い落ち込みからは、全国的に出土が珍しい子持家形埴輪が出土しました。

 ◆3Dレーザー測量ってどんな技術?

 従来の測量では時間のかかってしまう複雑な地形も、3Dレーザースキャナーなら写真のように細かく測量することができます。光波・レベルによる従来測量に比べ測点数は1万倍。測量時間は1/10以下と大幅に短縮。低価格での現況測量・地形測量が可能となります。


 …と、こんな「甲立古墳」でありますようです(^.-)☆
 現在も未だ発掘調査が続いていますのでしょうけど、う〜ん、凄い古墳なんですねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 安芸高田市歴史民俗博物館内には、毛利家ゆかりの宝物が数多く展示されてありますのでしょうけど、そんなにユックリしております時間もありませんから、館内の見物はそこそこに多治比猿掛城跡への山城歩きにと出発です。
 歴史民俗博物館前から、またバスに乗り込み、ここから4.5kmばかり北西部の浄土真宗「猿掛山教善寺」入口へと向かい下車。いよいよ山城歩きのスタートです(^.-)☆

 今回の訪問場所ではありませんけど、念のために「浄土真宗 猿掛山教善寺」のホームへページを覗いて見ましたら、こんな記載が(^-^)

 ◆浄土真宗本願寺派 教善寺

 ・沿革 -- 猿掛城趾(国指定史跡…元就は父弘元と共に4歳の時此の地に移り、1523(大永3)年郡山城に27歳で帰る)の寺屋敷廊群に在る。当山は1536(天文5)年天台宗より改宗。1564(永禄7)年本願寺より寺號許可。今日に至る。
 ・寺宝 -- 代々貧乏寺なので自慢できるものは何も無い。
 ・教化活動 -- 代々無能なので自慢できるようなことは何もしていない。
 ・所在地 -- 〒731-0544 広島県安芸高田市吉田町多治比1746


 …と、こんな記載に思わず笑ってしまいましたけど、大変親近感を抱いてしまいましたネ\(^o^)/
 教善寺入口から少し進みますと、「多治比猿掛城跡」の案内表示板が…

 
◆多治比猿掛城

 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、安芸国(現在の広島県安芸高田市)にあった日本の城。国の史跡に指定されている。

 ・概要
 築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説も有力。国の史跡。

 ・歴史・沿革
 1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
 この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
 1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。

 ・構造
 城跡は多くの郭が残り、比高120mの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと思われる。

 ・所在地
 広島県安芸高田市多治比。近隣には杉大方の墓、毛利夫妻の墓がある。


 ここから教善寺に向かって上って行きますと、教善寺手前に「毛利弘元墓所」の案内板が…

 
◆毛利弘元

 毛利弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元、毛利元就、相合元綱、北就勝。

 ・生涯
 応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
 文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る。
 明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興に嫡男・興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
 対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
 しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年)1月21日に死去した。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。

 ◆毛利弘元墓所

 毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
 尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
 墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
 夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。(説明看板より)


 WEB上で検索しますと、こんな色んな記載がありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、毛利弘元墓所に参詣です。毛利弘元は、39歳でのご逝去。戦国時代とは言え、少々お若いご逝去ではありますネ。
 ところで、『夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された…』との事ですけど、何で鈴尾城(福原城)の福原氏墓所に葬られていたのだろう?…との不思議な想いも。
 WEB上で検索して見ましたら、こんな記載が…

 
◆元就母の墓のなぞ

 元就の母は、毛利一族の福原氏で、福原広俊の娘となっている。毛利一族の中でももっとも有力で中心的な一族である。毛利元就が後年隆元に書いた手紙の内容によれぱ、元就五歳の時母に死なれ、十歳の時父に死に別れたとある。元就四歳の時、父とともに猿掛城に移り住んでいることになっている。
 ところが、元就の母が、父とともに猿掛城へ移動したかとどうかとなると、これがはっきりとしていない。父弘元は猿掛城に隠居して五年後に死んでいる。父の墓は猿掛城山麓の悦叟院という菩提寺跡にある。そして母の墓も弘元と並んである。
 これではなんら不思議はないのだが、実は母の墓は、もともと福原氏の居城鈴尾城近くの福原一族の墓所にあったのである。そこで夫婦が別々のところにあるということではまずいと思ったのか、大正時代に母の墓石をわざわざ猿掛城の悦叟院跡地に移動させたのである。

 現在、猿掛城で見かける弘元と元就の母の仲良く並んだ墓石は、意図的に仕組まれた光景だということである。
 元就の母の墓が実家の福原氏一族の墓所にあったということは、当時そういう状況を作り出すだけの事情があったことを物語っている。そのことについては元就は何も語っていない。語りたくなかったのだろうと思う。
 毛利元就の研究家森本繁氏は、『毛利元就99の謎』(PHP文庫)の中で、元就の母福原広俊の娘は、弘元と猿掛城に移ったのでなく、実家の福原氏の鈴尾城に帰り、そこで元就を生んだと主張。そしてそこで死んだのでそのまま福原氏の墓所に一緒に葬られた。
 たぶんこれが真相だろうと私も思う。


 …との、こんな記載が。
 ふ〜ん、色々事情がありましたようですねぇ〜
 それでは、今から、多治比猿掛城跡へと山登りです(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

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