2017年 紅葉を求めて「神勝寺」散策 <3/7> |
本堂を拝見しておりますと、「開基之間」がありましたので、ここも拝見です(^.-)☆
開基・神原秀夫sanを紹介致しますと、こんな凄い方のようですねぇ〜
◆開基 神原秀夫
(天勝院殿釈五徳秀嶺大居士前常石造船株式会社社長)
大正5年(1916)9月1日 父 神原勝太郎、母 ヒサの長男として出生。
幾度もの戦役への出征を経験する。昭和14年(1939)立命館大学法学部卒業。除隊後は父の経営する会社に入社し、昭和19年(1944)瀬戸内海船舶株式会社(現 神原汽船株式会社)社長兼常石造船株式会社副社長に就任。
昭和30年(1955)沼隈町初代町長に就任。昭和36年(1961)父の逝去に伴い、常石造船社長に就任。
昭和40年(1965)12月2日神勝寺を建立(宗教法人認可)、開基となる。
昭和52年(1977)2月16日神勝寺無明院を建立・落慶法要。無明院の落慶法要を目にすることなく3月12日、入院先の京都大学附属病院にて逝去。60歳。
◆財部誠一(経済ジャーナリスト)を囲む経営者リレー対談『経営者の輪』より抜粋
◇雇用を守り、地域社会と社員に感謝しながら105年やってきた
ツネイシホールディングス株式会社
代表取締役社長 神原 勝成 氏
神原:
そして船の数が次第に拡大していく中で、持ち船を他の造船所で修理するのもどうかというので、自前で修理工場を作り、その流れで新造船を手がけるようになりました。大正初期(大正2年に初の新造船『第二天社丸』を建造し、同6年に塩浜造船所を開設)のことです。ウチの先代の話をいろいろ聞いていると、とにかく前向きにチャレンジ、チャレンジの繰り返しなんですよね。
財部:
ほお。
神原:
僕も会社に入るまで知らなかったのですが、当社はかつてパプアニューギニアで造船所を建設し失敗したり、南米ウルグアイでも造船所を経営していました。とくに祖父(神原秀夫氏)はちょっと翔んでいる人で、30代半ば(1955(昭和30)年)でここの地元の初代沼隈町長をやっています(旧沼隈郡沼隈町は2005年に福山市に編入)。その当時、祖父は「50年後に食糧危機が来る」と言って南米に土地を買って、「日本の高度成長はそうすぐには来ないだろう」と、地元の約300家族を南米パラグアイやウルグアイに移民させているんです。
財部:
へえ、そうなんですか。
神原:
さらに、祖父は、「(町民たちを)移民させただけではいかん」と言って、味噌や醤油を作ったり、造船所や牧場をやったり、米を植えさせたりしたんです。いろいろなことに挑戦し、たくさんの失敗を繰り返しながら会社が大きくなってきたんですね。また、後を継いだ私の父(神原眞人氏)が社長になってから、造船不況を2度ほど経験しましたが、父は「首切りをせずに雇用を守る」ということで多角化を行いました。その中で失敗したものの1つがレジャー部門で、同部門を整理しようという時に、僕が29歳で社長になったんです。いわゆる金融ビッグバンが始まって2年が過ぎた頃でした。
…と、こんな方のようであります(^_^)v
無明院の本堂を後にしますと、境内脇の小径を歩いて鐘楼へ。
ここにはどなたもおられませんから、閑散としたもの。GONsanが貸切で拝観となりました(^_^)v
◆浪切堂
陸上や海上の安全ならびに息災・増益などの現世利益を祈願するため、堂内で火を焚き様々な供物や護摩木を火中に投じて祈祷を行う護摩堂である。当堂の本尊として「浪切不動明王」が祀られているので特に「浪切堂」という。
「浪切不動明王」とは、弘法大師空海が海上安全を祈らんがために自ら一刀三礼彫刻をし、尊師恵果阿闍梨の開眼加持を受けた霊尊である。
大同2年(806年)10月弘法大師空海が帰国の際、玄界灘の荒れ狂う風と波に船は翻弄され、たびたび沈没の危機にさらされたとき、祈念し不動明王を示現した。火焔を放ち利剣を振って魔風を鎮め、荒波を切り開いて、船を無事博多湾に導いたのである。
このことからこの霊尊は「浪切不動明王」と呼ばれるのである。
◆保久利堂
「保久利」とは万葉言葉で、完全・円満・安穏を意味する言葉である。
死ぬ時は長患いをせずに、ぽっくり旅立ちたいというような世に云う安らかな死という意味の「ぽっくり往生」だけではなく、現世においては安心を得て安穏なる人生が送れるように、そして後世においては阿弥陀如来の導きによって極楽での安穏なる時を過ごすことができるように、という二世の安楽を願う場である。
堂内には、台湾の仏師 呉克明作の阿弥陀如来像が安置されている。
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