2014年 第2回「因島ウォーキング大会」 <4/5>

 

 

 

 

 水軍スカイラインの峠に到達し、ヤレヤレと下っておりますと、前方に「三庄展望台」が(^.-)☆
 ノンビリと昼食を取っておられます方は少ないのかも…と立ち寄りますと、意に反しまして20名程度の方々が賑やかにお食事中でありました (^.-)☆

 で、GONsanも弁当引換券で弁当を受け取りです(^.-)☆
 喉の渇きもありませんし空腹感も無いのですけど、せっかく弁当を注文しておりましたから…
 空いていました石造りのテーブル・椅子を確保し、とりあえず休憩です。

 弁当を開きますと、@500円ですから仲々ヘルシーでありました(^-^)
 うん、うん、これなら戴いてもイィかも(^_^)v

 弁当を戴いておりますと、GONsanのリュックに手を伸ばされます方が…
 慌てて、「済みません、これは私のリュックなんですけど…」と言い終えないうちに、「わ・た・し!!」の声に、もぅビックリ(^-^;
 えぇっ〜嫁さんもGONsanより数分遅れで到着とは…
 とにかくビックリのGONsanでした(^.-)☆

 5分遅れと言いますと、通常のGONsanのウォーキングは9分/kmですから400〜500m後方を嫁さんも歩いていたのですねぇ〜
 ここまで、今治市から当日参加のご年配の男性と、楽しく会話しながら歩いて来たとか…
 後で嫁さんから聞きましたけど、この男性、結構なお歳にも拘わらず、マラソン・自転車・水泳を普段から親しんでおられ、トライアスロンにもエン トリーされますとか…
 いゃあ、GONsanから見ますとまさに鉄人ですよ。

 今治市でタオル関係の事業をなさっておられるとかで、風貌は温厚な老紳士。
 なのにトライアスリートとは…もぅ脱帽のGONsanでありました(^-^;

 とにかく昼食を終え、GONsanは一足先にウォーキング再開となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 椋浦町にとヤッて来ますと、ここには「椋浦廻船の灯籠」「小早川家墓所」「徳川幕府船将の碑」を案内します表示板がありました。
 チョッとだけ立ち寄ってみましたけど、スグにはその所在が分かりませんでしたので、表示板周辺の景観を撮りまして退散となりました。

 それにしましても、「徳川幕府船将の碑」とは、何なんでしょう?
 WEB上で検索してみますと、こんな記載が…

 ・青木忠右衛門
 青木忠右衛門は徳川幕府軍船美嘉保丸の船将であった。その碑は因島椋浦町に現存する。その碑台座が忠右衛門の子孫7人の手によって新築された。 また「因島市史」(青木茂編)は、「幕船艦長青木宗作」で詳述している。

 …との、こんな記載がありましたけど、もう少しジックリ見廻し「徳川幕府船将の碑」を画像に納めましたら良かったのかも…
 少し悔やまれるGONsanでありました(^-^;

 また、いつの日か、機会が訪れましたら再訪してみたいと思います(^-^)//"

 

 

 

 

 

 また暫く歩いておりますと、パッと眼の前が開きましたように因島大橋が(^.-)☆
 この梶ノ鼻よりの因島大橋の眺望も仲々の絶景です。
 「因島八景」の一ヶ所だけありますネ(^_^)v

 暫し因島大橋の眺望を楽しみましてからは、給水ポイントのあります本因坊秀策囲碁記念館方向へ。

 GONsanの前後を歩いておられます方々は、皆さんここも素通りです。
 ですが、何度か「本因坊秀策碑」を訪れていますGONsanと言えども、素通りと言う訳にはいきません。
 囲碁記念館の中には入りませんけど、秀策碑には手を合わせませんと(^.-)☆

 

 

 

 

 

 


 ◆本因坊秀策

 1837年(天保8年)に出府して本因坊丈和に入門、本家の名字である安田を借り栄斎を名乗る。その打ち振りを見た丈和が「是れ正に百五十年来 の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛したと伝えられる(百五十年前は道策の全盛期であった)。1839年(天保10年)に初 段。翌1840年(天保11年)に秀策と改名し、二段昇段。翌1841年(天保12年)三段昇段、さらに翌1842年(天保13年)四段昇格す る。

 1846年(弘化3年)、井上幻庵因碩と数度の対局を行う。幻庵八段、秀策四段なので二子の手合だが、一局打ちかけて幻庵は秀策の実力を認め、 破格の定先に変更しての対局であった。その中の一局は「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれる著名局である。幻庵因碩は後に「(あのと きの)秀策の芸は七段を下らない」と評したという。

 当時、一流の打ち手であった幻庵因碩に定先で打ち勝った事を機に、丈和と秀和は秀策を将来の本因坊跡目とする運動を始める(当時丈和は隠居、当 主は丈策であり、秀和が跡目であったが、丈和・丈策が一年後に相次いで亡くなっていることから、この時点で両者ともに健康を害していたのではない かと推測されている)。しかし家元につけば同時に幕臣となるが、秀策は父・輪三の主君でもある備後三原城主・浅野甲斐守の家臣と言う扱いであり、 甲斐守に対する忠誠心からこれを頑なに拒否。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。

 また師・秀和との対局で先で打っていた所、秀策の大幅な勝ち越しになったため秀和が「手合いを改めよう」と言った所「師匠に黒を持たせるわけに はいきません」と答えたという(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つ事になる)。

 1848年(嘉永元年)に正式に第14世本因坊跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。また翌年から御城碁に出仕し、それ以後 19戦19勝無敗の大記録を作った。秀策最強説の有力な根拠がこれである。もっとも、秀策は御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)と の二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時二段)との二子局を秀和に打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞 したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に二子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。ただし、同時に「互先の白番 (=コミなし)なら誰が相手でも辞さない」といったことも伝えられている。

 秀策の無敵を支えたのは平明秀麗な碁風と、秀和と並ぶ正確な形勢判断である。また秀策の先番は秀策流と呼ばれる布石法が有名であり、秀策の先番 は堅実無比と称された。秀策が御城碁下打ちの結果を聞かれた時、「先番でした」とだけ答えたと言う逸話も残っている(ただしこの話は謙虚な秀策の 性格とはそぐわないため、「先番でしたので、なんとか勝つことができました」の前半部分だけが一人歩きしてしまったともいわれる)。

 1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり、当人 が感染しそのまま34歳で死去した。この年御城碁が中止され消滅した。なお、本因坊家では秀策の看病によりコレラによる犠牲者は秀策以外は1人も 出さなかった。

 棋力のみならず極めて人格に優れ、本因坊道策(前聖)、本因坊丈和(後聖)に並び称され、後の囲碁ファンに与えた影響は多大である。


 …と、こんな記載がWEB上にはありました(^-^)//"
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