2013/05/24〜05/26
2013 中村講中の皆様と東北方面のお寺巡り <4/12>

 

 ■白虎隊自刃の地
 
 自刃の地は白虎隊の墓より僅かに下った場所にあります。
 この場所が白虎隊が最期にたどり着いた場所で、ここから鶴ヶ城(会津若松城)が炎上するのを見て自刃を決めました。
 この場所からは会津若松市中心部が一望でき当時を思い起こすことが出来ます。
 
 案内板によると「戸ノ口原の戦に利あらず白虎隊士20名が西軍の追撃を受けながらやむなく戸ノ口洞穴をくぐり、この地に辿り着いた時は鶴ヶ城附近の侍屋敷が大火災を起し、天守閣は炎と黒煙に包まれており、主君のもとに馳せ帰るべき最後の望みを失われた。最早や落城は目前に迫る吾等君国に殉ずるはこの機なり、と全員遥かにお城に拝し従容として自刃し相果てた聖地である。」とあります。

 

 

 

 ■郡上八幡の凌霜隊之碑
 
 この碑は戊辰戦争の際に会津藩を盟主と頼み、各地で転戦して若松城で白虎隊と共に籠城戦に参加し、憤死死闘した美濃國郡上藩校凌霜隊の霊を慰めるために建てられた碑です。

 

 

 

 

 この女性剣士sanは、お土産物屋のガイドさんなんですけど、こぅした史跡を訪れます時にはどぅしてもガイドsanの説明が必要ですネ(^.-)☆
 ガイドsan付きでありませんと、仲々歴史の詳細を理解しますのも難しいですし…
 
 このガイドsan、最後に白虎隊の舞を披露して下さいました(^_^)v
 あまり感情をお顔に出されることもなく淡々としたガイドsan。
 
 最後の舞も淡々と(^_^)
 ですが、何故か大変印象に残ってしまいましたよ(^-^)
 白虎隊の自刃の跡地ですから、地元の皆様にとられましては神聖な場所なのでしょうから、淡々とした語り口もやむを得ませんのかも(^-^)//"

 

 

 

 

 飯盛山白虎隊墳墓へのお詣りを終えますと、すぐ下に存在します「会津飯盛山上 飯盛分店」で昼食となりました。
 
 ◆会津飯盛山上 飯盛分店
 
 当店は、飯盛山白虎隊墳墓のすぐ下にあり、鶴ヶ城・会津平野を一望できる高台に位置し、【無料大型駐車場(2箇所)】・【お食事処】・【売店】がございます。
 飯盛山にお越しになられた皆様が充実した時間をお過ごし頂けるよう、スタッフ一同笑顔でお待ちいたしております。
 
 また、ご参拝の折は、お申し込みにより白虎隊奮戦の有様、自刃の場所、墳墓、ローマの古柱、陳列室等をご案内申し上げます。
 飯盛分店に、お気軽にお立ち寄り下さい。
 
 …と、こんな記載がありましたけど、挿入の画像は、この「会津飯盛山上 飯盛分店」から「栄螺堂(さざえどう)」を見下ろしたものです(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 ■栄螺堂
 
 二重らせん構造の斜路をもつ特異な建物として知られる。
 福島県会津若松市の白虎隊の墓所のある飯盛山の中腹に建つ。通称は「会津さざえ堂」もしくは単に「さざえ堂」で、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)という。
 
 平面六角形の特異な建物である。概ね三層構造といえるが、内部には二重らせん構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する。入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる。
 
 かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の寛政8年(1796年)(『新編会津風土記』による)に当時の住職であった郁堂(いくどう)が建立したものである。
 当時は阿弥陀如来を本尊とし、斜路には三十三観音像が安置されていたという。神仏混交の信仰形態をもっていた正宗寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、以後、栄螺堂は個人の所有となっている。また、堂内にあった三十三観音像は他所へ移され、代わりに「皇朝二十四孝」の額が取りつけられている。
 
 同名の堂は他所にもあるが、旧正宗寺三匝堂のような特異な内部構造をもった堂は他に知られず、稀有な例として1995年6月27日付けで国の重要文化財に指定された。
 なお、二重らせん構造を有する近代以前の建築物としては、世界では他にフランス、ロワール地方のシャンボール城内部にある、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計による二重螺旋階段が知られている。レオナルドのアイデアが蘭書に掲載され、めぐりめぐって会津地方まで伝わったのではないかという説もあるが、物証は無く定かではない。

 

 

 

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