2013 中村講中の皆様と東北方面のお寺巡り <5/12> |
■厳島神社厳島神社は古くから信仰の対象となっていた神社で永徳年間(1381〜83)に勧請されたと言われています。
当時は宗像神社と称し飯盛山も辯天山と呼ばれていました。神仏習合し祭神である市杵島姫命は弁才天と習合し、別当には正宗寺があたりました。
歴代の領主からも信仰され芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(松平氏)の崇敬社となりました。特に会津藩三代藩主松平正容は元禄13年(1700)に社領の寄進や社殿の建立などを行いました。寛政8年(1796)には別当である正宗寺の三匝堂(さざえ堂)が建立されるなど隆盛を極めましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により正宗寺が廃され厳島神社と改名されました。
■戸ノ口堰洞穴猪苗代湖から会津地方へ水を引く為に掘られた堰で元和年間から元禄年間まで工事が行われ天保3年から3年間は会津藩士である佐藤豊助が中心となり飯盛山の中腹からトンネルを掘り進みました。トンネルの長さは約150mとなり工事に刈り出された人夫は5万5千人に達したそうです。完成後は2,500ヘクタールの灌漑が可能になり会津藩にとって大きな恩恵となりました。戊辰戦争の祭は白虎隊士中二番隊20名が鶴ケ城(会津若松城)に戻る際通った洞穴としても有名で、この後飯盛山から城下町が炎上しているの見て自刃しています。
飯盛山でのお詣りを終えましてからは、今回の2番目に訪問寺「妙國寺」へと向かう事となりました。■妙國寺妙國寺(みょうこくじ)は、福島県会津若松市一箕町八幡字墓料78番地にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は宝光山。日什門流八別格本山のひとつ(他の別格本山は会津妙法寺、品川本光寺、品川天妙國寺、飯田本興寺、見附玄妙寺、吉美妙立寺、京都寂光寺)。◆概要妙国寺の創建は応永元年(1394)に日蓮宗の高僧日什大正師の開基で高弟の日仁上人が開山しました。この地は日什大正師の父母の旧地で大正師が荼毘した場所で、日蓮宗の聖地の1つとされ境内には墓碑と伝わる五輪塔があります。戊辰戦争時、鶴ヶ城(会津若松城)開城後、会津藩主松平容保父子が28日間謹慎した場所としても知られ、飯盛山で自刃した白虎隊士の仮埋葬地でもあります。
薩摩藩を主とする新政府軍は、朝敵となった会津藩の戦死者を埋葬することを禁じていた事で自刃した白虎隊士の遺体も数ヶ月間も野ざらしになっていました。
そこで吉田伊惣治など村人達は数度に分け妙国寺に運び埋葬しました。その後、埋葬が許された事で自刃地でもある飯盛山に本葬し明治23年に墓碑も建てられました。◆沿革応永元年(1394年)−日什の誕生地であり墓所である当地に弟子の日仁が開創。
什門の名刹として、その後、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。同宗は政府の意向により1941年の日蓮宗、本門宗と合同した。戦後旧守派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、改革派は日蓮宗に残り妙國寺は什門四本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。
なお中間派は単立として現在に至る(品川本光寺等)。
日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。現住は54世伊藤日耀貫首。什師・禹師寮法縁縁頭寺。◆歴史飯盛山で自刃した白虎隊士を当時の檀家の肝煎であった吉田伊惣治が運んで埋葬、現在にも境内には白虎隊の墓が残っている。会津戦争で会津藩藩主松平容保が降伏した後に、新政府軍から1ヶ月間謹慎の身となった場所となった。…と、こんな由緒有ります妙國寺。
境内を見廻しておりますと、戊辰戦争時の様子が、よく分かりませんままGONsanの脳裏に浮かんで来ましたネ…
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