2013 中村講中の皆様と東北方面のお寺巡り <3/12> |
■飯盛山の名所「動く坂道」飯盛山・白虎隊のお墓への参拝には、途中急な石段が待ち受けています。登りは「動く坂道・スロープコンベア」でラクラク移動!!
降りになだらかな坂道で、ゆっくりと観光ができます。
■ローマ市寄贈の碑昭和3年にローマ市民から送られたもので、円柱の石はベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱。
基石表面にイタリア語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため古代ローマの権威を現すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と、裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、第2次世界大戦後占領軍の命により削り取られた…との事です。
■フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑案内板によると「昭和10年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官「HassoVonVonEtzdor」氏が、白虎隊精神を賛美して贈られた碑文と十字章である。碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」「第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを、昭和28年再刻のうえ復元されたものである。」とあります。
■白虎隊の墓案内板によると「正面の墓は、明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。
八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。
約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士三十一名の墓です。左側の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
■飯沼貞雄の墓案内板によると「白虎隊士自刃者唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後通信省の技師となり仙台通信局工務部長に進み、通信事業に挺身と多大の貢献をなし昭和6年78才で仙台市において没した。白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。」とあります。貞雄は生き残った事を生涯悔い会津若松には近寄らなかったと言われ、遺言により白虎隊の墓近くに昭和32年(1957)に遺骨の一部が分骨され埋葬されました。
■鶴ヶ城(つるがじょう)別称若松城戦国期には当地に葦名氏の「黒川城」があり、蒲生氏郷が文禄元年(1592)に甲州流の縄張を用いて郭を築き、7層の天守閣、櫓をたて、馬出を作ったと伝えられる。
また地名を若松と改め、城を鶴ヶ城と命名した。
慶長の大地震(1611)で傾き長い間放置されていたが、加藤明成の時代に鶴ヶ城の大改修に着手。大手門を北側、天守閣を5層に改め、石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど鶴ヶ城を現在のような形態とした。天守閣は戊辰の役で砲撃され、明治7年に取り壊されたが、昭和40年に内部を郷土博物館展示場として再建された。
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