講中の皆様と静岡・愛知方面のお寺巡り <5/13> |
昼食を終え、午後一番(今回の三ヶ寺目)の参拝は、静岡・本覚寺でありました(^.-)☆
■本覚寺
当山は日蓮大聖人の御門下の中老僧・治部公少輔阿闍梨・日位上人の創め給うた寺で、もとを尋ねれば、かつて真言宗の古刹であったといわれております。
日位上人は正嘉元年(1257)1月1日の御誕辰で、今の富士郡加島に生れた方でありますが、その御両親については詳しいことが分っておりません。ただ、祖母にあたる妙位日禅尼に養育されたということだけは確かのようであります。
俗姓は南条氏で、北条九代の一族といわれており、上人の家系が宗祖日蓮大聖人の直檀、すなわち上野殿といわれた南条時光公に属していることを知り得るのみであります。
上人は初め六老僧の日持上人によって出家の道に入ったお方で、後になって宗祖に直参してよくお仕えいたしました。
祖母の妙位日禅尼というのがきわめて篤信の方で、伊東に流罪中の大聖人を訪れたときには、当時まだ五歳であった日位上人を伴なわれていますし、また宗祖の身延在山中には、しばしば登詣して、米・野菜などの供物を贈られたりなどしておられます。
伊豆での御対面が大聖人へお目見得した初めであったかと思われますが、宗祖としては相つぐ御法難の渦中にあって、まだ幼少の上人を養育されることなどは思いもよらぬことだったでしょうから、その後の上人については、日持上人がよく面倒を見られたもののようであります。
宗祖大聖人は日禅尼の篤い志に感じて、建治3年(1277)7月13日、『盂蘭盆御書』と『十界曼荼羅己心本覚本尊(一幅)』を授与せられました。
この本尊こそは無始本有己心所具の本覚法身如来にして、これ妙位尼公・朝暮不退の唱題に備うる所以なりとして勧信授与せられたもので、この本尊に因んで当山は「本覚寺」と名づけられたということであります。
…と、こんな由緒がありますようですネ(^.-)☆
■境内諸堂
本堂の内部は鎌倉時代のままでありますが、外部は文政元年(1818)すなわち江戸時代のもので、現在はさらに銅板葺となり、旧観を改めました。
本仏堂は元亨元年(1321)南北朝時代のもので、久能に近い高松の海中より出現した木像の釈迦牟尼如来(伝、春日の作)のほか 子育鬼子母神、十羅刹女および行学院日朝上人(身延山11世)の木像をも安置しております。
金毘羅堂は、亨保5年(1720)金毘羅明王を奉祀したもので、位牌堂は、明治4年(1875)に久能山の護摩堂を移して建立されたものです。
また朝暮に時を報ずる鐘楼は前記の如く明治の末に建造されて、境域に一段と美観を添えました。玄関・客間はそれより早く、14年(1885)の建築であり、書院は25年(1896)に建造され、客殿は前述のように昭和62年(1987)に建設されました。
宝蔵には、養珠院お万の方が寄進された見事な釈迦牟尼仏の立像と、毘沙門天の立像、ならびに鬼子母神像が安置されております。
■地域と墓所
当山は有度山麓の丘陵にあり、静岡市第5号風致地区の指定を受け、老樹繁茂して森厳、且つ鳥類嬉々としてさえずり、限下に静岡市街の眺望を収め、四時の風光極めて明媚、境内には樹齢800年を超える老樟2本が枝をひろげております。
その他、境内には閑山日位尊者及び妙位日禅尼の墓所があるほか、遠州高天神城を守った勇士・岡部丹波及び孕石主水の墓、また侠客で名高い安東の文吉を葬った墓所などがあります。
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