2010/05/07〜2010/05/09
講中の皆様と静岡・愛知方面のお寺巡り <4/13>

 

   

 

 

 身延山・久遠寺を後にしますと、次は静岡市清水区の「海長寺」のお参りです。
 ここもまた由緒ありますお寺なのではありますが、建物自体は随分新しいものでありました(^.-)☆

 ◆開創
 
 平安朝の仁寿二年(西暦八五二)有渡山八ツ原に創建された天台宗の古刹で、村松山峨岳寺と称した。慈覚大師を開基とし台密を伝えたが、寛弘八年(一〇一一)山津浪で崩壊してから現在地へ遷った。

 ◆改宗

 鎌倉時代の文永九年(一二七二)に日蓮聖人の弟子、中老僧日位上人が当地を弘教し、当時の寺主慈証尊者を帰伏せしめてから本化門下となる。
 慈証は日受と法号を改め、日位尊者を開基と仰いで、聴講侍坐した。山寺号も龍水山海上寺と改称したが、後に故あって海長寺と改めたのは、徳川期に入ってからのことである。


 ◆願満の祖師

 弘安四年(一二八一)に堂宇を改修した頃は釈迦牟尼仏を本尊としていたが、これは後に逆修堂へ奉祀されたものである。日位尊者が身延山の宗祖聖人に事の次第を言上すると、宗祖は自身点眼の像を授与されたが、現在も本堂に奉安されてある願満の祖師像がそれで、彫刻の名手・中老僧日法上人の作として近郷の信仰を集めた。

 ◆栄枯盛衰

 徳川家の庇護を得て寺運も隆昌し、諸堂も整備して塔中も数坊を数えたが、賢妙院・円城坊・宝積坊は明治の初頭までに廃され、明治二十一年には鐘楼を再建、南向大門を廃して東向石門を建造した。

 池上法流四本山の一に列したのも明治の代であるが、その後は当山より幾たりかの貫首が池上本門寺へ栄進している。大正十年三月(彼岸の社日)に位牌堂より出火し、鐘楼と庫裡を残し焼失したが、満十年にして祖師堂・本堂・宝蔵・書院などを造築し、昭和六年の宗祖六百五十遠忌に諸堂落慶式を挙げることができた。

 時に六十一世中野日粲上人の代であったが、然るに昭和二十年七月、今次戦争の累禍を受け、鐘楼と宝蔵を除いて再び全山は灰燼に帰した。
 その後、本堂は石川日教上人の代、書院は伊藤日定上人の代、庫裡は山本日仙上人の代に復興し、梵鐘も新鋳され、更に、第六十八世三瓶日揚上人、宗祖七百遠忌記念事業として、本堂屋根替え銅板葺及び内陣荘厳、宝物館新築、造園、宗祖銅像、歴代墓碑の建立等を完逐したものである。


 …と、こんな海長寺でありまして、平安朝時代から続きます仲々の古刹。
 ただ惜しむらくは建物が新しいのが…
 とは言いましても、色んな時代を乗り越えて今日に至っていますのですから、仕方ないことではありますが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 境内に存在します“朱印の椿”の表示板。
 徳川家康にまつわるこんなお話しが伝わっていますようですネ。

 ■椿の御朱印

 家康公が天正時代に、武田家臣と戦いをおこし敗れて清水区村松にある海長寺(当時は海上寺)に駆け込み難を逃れた話が伝わっている。
 それによると、追いかけられた家康公は、咄嗟に境内の椿の大樹に身を隠していた。追手は寺の僧に詰め寄ると、僧は「知らぬ」と返答をした。

 追手の今福丹波に対して寺僧は、「寺中を探して、もしおらずばどうなされる」と言うと、今福丹波は「もしおらねばこの首を与える」と言って寺中を探した。ところが、家康公は発見されなかった。

 そこで丹波は、約束通り切腹したので裏山に埋葬されたという。
 家康公は後に大御所として駿府城に来ると、海長寺に寺領8石を与えたという。今福丹波とは、久能山城を守っていた武田の武将今福浄閑斎である。


 …との、こんなお話しが(^.-)☆
 戦下手でした徳川家康らしさが充分伝わって来ますけど、う〜ん、武田の武将「今福浄閑斎」と言う方も仲々の人物だったのですねぇ〜

 

 

 海長寺の参拝を終えますと、すぐ近くの日本平に上がり昼食タイムとなりました。
 日本平へ登るパークウェイを走行中には、車窓から鮮明に富士山山頂が見えておりまして、展望台からの富士山展望を大変楽しみにしておりました。

 が、昼食を終え急いで電波塔の反対側の展望台にと向かって見ますと、残念ながら富士山山頂は雲に隠れておりました(^-^;
 時たまチラッと雲間から山頂が見えるのですけど、スグにまた雲の中。
 確か、一昨年の同じ時期頃に日本平にヤッて来ました際にも、同様に富士山頂を眼にする事は出来ませんでしたネ。

 この展望台からの富士山眺望は結構美しいのですけど、う〜ん、残念でありました(^-^)//"

 

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