2022/12/27(火) 迫山古墳・備後国分寺・清水氏庭園℃U策 <4/8>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 工事で忙しくしておられます方々を横目にパチパチ写真を撮っていますのも気が引けますから、西側の墓地の方に向かっていますと、マップ上では好右衛門義擧碑≠ニ記載がありますから、墓地裏(北側)の山際に行ってみましょうか…
 眼に入ります景観を画像に納めながら、ノンビリと歩きながら、チョッとWEB上で好右衛門義擧碑≠フ事前学習です。
 そぅしましたら、こんな記載がありましたネ。

 ◆明和一揆の義民 渡邉好右衛門義碑

 国分寺裏唐尾山四国霊場一番札所の脇に「好右衛門義碑」がある。

 ・渡邉好右衛門碑文
 下御領村組頭渡邉好右衛門、父重兵衛という田村に住し資質剛直 頗る才略有す 安永元壬辰(一七七二)秋 里正憤り 之苛征自ず止むことあたわず 進み訴え福山藩庁において緩やかに事(おさむ)る 小民を救わんと之困憊して群センたる所中に身を縲絏(るいせつ)に繋ぐ
 二年二月十三日、幽界に神を移す 時に年五十二 法号節生蓮意 寒水寺において葬る 吁凌霜の雪を侵し 救民に窮苦する霊徳 昭著にして百世に滅ぶ無し
 -- 昭和四年七月 土肥政長(村長)建立 --

 参考文献(「第8回御野村郷土塾5」配付資料2015年12月9日 転載)

 

 

 

 

 墓地を横目に山際に上がって行きますと、うん、うん、これが唐尾山四国霊場一番札所≠フようですネ。
 その並びの右側に好右衛門義擧碑≠ェ…
 説明板もありますので、眼を通してみますと、

 ◆明和一揆の義民・渡邉好右衛門

 明和6年(1769年)の秋から翌年にかけて、福山領は天候不順による大凶作と重税により、飢餓人が出るほどの過酷な状況に置かれ、窮乏に耐えかねた農民達によって明和一揆が勃発しました。
 その際、福山領6郡すべての農民達の信頼を得た指導者の一人が下御領村組頭の渡邉好右衛門です。農民達の要求は大半が認められましたが、幕府の発令した一揆弾圧により、首謀者とされた好右衛門と下竹田村の定藤仙介、北川六右衛門の3人が打ち首、獄門の刑に処せられました。
 明正寺(上御領)の過去帳には、法名とともに、好右衛門、仙介のいずれも「安永2年2月13日」の同日に歿した記載があります。好右衛門の墓は寒水寺にあると伝えられて来ましたが、残念ながら、現在、特定できていません。
 なお、好右衛門については、昭和4年に土肥七郎(政長)氏によって備後國分寺域に建立された好右衛門義擧碑があり、その霊徳を顕彰しています。

 --- 平成29年3月 神辺ふるさと会 ---

 ◆延宝の水害 供養塔

 備後國分寺寺域の一角に、大正11年に土肥七郎氏による延宝の大水害の犠牲者63人の供養塔があります。
 江戸時代の初期、延宝元年(1673年)5月14日、この地方は集中豪雨に襲われ上流の池が決壊、堂々川が氾濫し川下の村は大被害となり、63人もの犠牲者が出る大災害となりました。この洪水で広大な寺院であった備後國分寺の伽藍も流出し、田畑には1メートル以上の土砂が堆積しました。福山藩はこれを教訓として、土砂対策として石積みの砂防?提「砂留」の建設に力を注ぐことになり、堂々川に16基も作りました。
 なお、2006年(平成18年)には中流域の砂留8基が国の登録有形文化財に指定されました。

 --- 平成29年3月 神辺ふるさと会 ---


 …と、好右衛門義擧碑∞延宝の水害供養塔≠フ由来の説明が(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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