2016年 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆ <2/14>

 

 さほど高い山ではありませんから、ほどなく展望台にと到着です(^.-)☆
 早速、展望台から松山市内を眺望ですけど、うん、うん、それなりに松山市内が見渡せますネ(^_^)v

 正面には、時間がありましたら上がってみたい松山城が(^-^)
 それにしましても、ここには展望台以外は何にもありません。
 まぁ展望台ですから、そんなもんですけどネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 展望台から降りてきますと、今度は、外周を散策となりました(^.-)☆
 暫くノンビリと進んで行きますと、樹木に無数の飾りらしきモノが…これは何なのでしょうねぇ〜よくよく見ますと顔が描かれておりました。
 これは何かのイベントで使用されたモノなんでしょうか…

 それからまた暫く進みますと、今度は「重要文化財・湯釜」の表示看板が(^.-)☆
 早速、WEB上で検索して見ますと、こんな記載がありました(^_^)v

 ◆日本最古の湯釜・湯釜薬師

 道後公園にある石造りの湯釜。直径が166.7cm、高さが157.6cmという円筒形で、かつては湯口として使われていました。
 天平勝宝年間(749〜757)に作られ、正応元年(1288)、一遍上人の書で「南無阿弥陀仏」と彫られてあります。また、周りの文字は亨禄4年(1531)に河野通直が天徳寺徳応禅師の温泉記を彫らせたものといいます。
 この湯釜は現在の下から湯が出るものと違い、てっぺんの球の部分から湯が吹き出るようになっています。これは当時は湯が自然に吹き出ていたためだそうです。

 この湯釜は全国で最古のもの。県指定の有形文化財となっています。
 この湯釜に残る伝説があります。時は戦国時代。伊予の国も豪族どうしの戦乱に明け暮れていました。ある時、河野氏に逆らう豪族が湯築城付近で合戦をし、武士たちが湧き出る湯で血のついた刀を洗いました。と、湧き出していた温泉が止まったのですが、湯神社で祈願してもらうと、元のように噴き出しました。河野通直が感謝の気持ちで新たな湯釜を作ったのが亨禄4年だといいます。

 湯釜薬師は明治27年に伊佐庭如矢と坂本又八郎が本館を作るまで、養生湯で使われていましたが、新築なったのを期に引退。昭和25年に今の場所に移り、屋根をつけ、湯釜薬師として祀った、という訳です。

 
・参考資料/松山の文化財・松山市・道後物語・朝日新聞松山支社・愛媛文化双書・愛媛県百科大事典・愛媛新聞社

 …との事でありました。
 そしてまた歩行続行。そうしますと今度はこの場所のみ紅葉が(^_^)v 日差しに映えた紅葉が実にキレイ(^-^)
 でも、ここだけでしたネ、紅葉が楽しめましたのは(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 暫し紅葉を楽しみました後は、また散策続行です。
 そぅしましたら、今度は「岩崎神社」の案内板が(^.-)☆

 WEB上で「岩崎神社」を検索して見ましたら、

 ◆道後公園の「岩崎神社」に伝わる話

 道後公園内の東側広場の近くに石の鳥居があり岩崎神社がある。「岩崎権現」や「道後の岩崎さん」とも呼ばれている。
 道後公園=湯月城跡は、建武年間(1334〜41)河野通盛が築城した。当時、庭の一隅に小祠を建てたのが始まりだという。神社が庭の端にあるから「庭先神社」、これが訛って「岩崎神社」のいうのが社号の起こりという。

 昔、東堀の土手には竹薮があり、春先の竹の子を、ある男が堀りにきた。竹の子堀りにきておかしなことに眠気がさしてきた。そばの木の根元に座り、腰の煙草入れから煙草を出して一服吸い、吸殻をぽんと木の根にはたいた。すると木の根がぐらりとゆらいで、よく見るとそれは大きな蛇であった。その蛇の長さは、ずっと義安寺まであったという。
 男はそれっきり気を失って大蛇に飲まれて死んでしまった。そのあともこの大蛇に飲まれて死んだ者は何人もあったという。

 村人はほとほと困り神社を建立し蛇が暴れないように祈願した。やがて大蛇は暴れなくなり、岩崎神社はこの蛇を祀っているという。
 河野氏の祖である小千命は白人明神と崇敬され、俗に「白蛇」と言われ、この小千命が祀られている。
 そのほか河野家代々の霊、その後土居通増、徳能通綱(星が岡の戦いで有名な南北朝時代の勇将)も祭神として加え祀られている。

 元禄15年(1702)、竹奉行安田又之允源義行が、神霊を古城の南で拾って岩崎大権現を再興したという。
 祭神が蛇なので卵が奉納されることもあり、信心すれば脳、神経痛に効くと言われる。9月14日、15日が例祭である。


 …と、こんな記載がありましたネ(^.-)☆

 それから、武家屋敷方向にと進んで行きますと、今度は「土坑(ゴミ捨て穴)」表示板が(^.-)☆

 ◆土坑(ゴミ捨て穴)

 土坑の大きさは、長さ約2.5m、幅2.0m、深さ0.5mです。
 この土坑は内堀土塁裾に作られた排水溝を壊して掘られています。
 出土遺物は、土師質土器の皿や杯が最も多く、なかでも京都の土器を真似たものが、他の土器溜りに比べて多いことが特徴です。これ以外に釜や擂鉢、備前焼や中国陶磁器、瓦質土器がみられます。
 また周辺では西日本で出土例が少ない丹波焼きの擂鉢もありました。
 最大土坑と同じく儀式や宴会で使用されたものが棄てられらたと考えられ、前方にみられる天然の岩肌のすばらしい景色を眺めながら宴会が行なわれたのでしょう。


 WEB上には、こんな記載もありましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 ですけど、後で知りましたのですけど、ここにはこんな「土塁展示室」がありましたのですねぇ〜
 存在に気付きましたら、勿論、中に入りましたのですけど、気付きませんでしたから素通りでした(^-^; う〜ん、残念(^-^)//"

 

 

 外周をズッと廻って来ましたらスタート地点にと戻って来まして武家屋敷が存在です(^.-)☆
 中に入りますのは無料ですから、早速、中へ(^-^)

 ・武家屋敷2
 外観復元した建物の内部を展示施設に。中世の道具類や職人の活動、また、湯築城跡の発掘調査の参考とした全国の遺跡を紹介しています。


 屋内には展示品が…
 この武家屋敷周辺からの出土品なのでしょうネ…整然と展示されておりました。
 いわゆる下級武士の方の住居でしたのでしょうねぇ〜

 

 

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