2016年 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆ <3/14>

 

 

 

 武家屋敷2を後にしスタート地点方向に進みますと、今度は「武家屋敷1」がありました。
 中に入りますと、深刻な表情で軍議をしているのかと思ましたら、当時流行した連歌の場面を再現しているのだそうです。
 武家の嗜みとして、当時はこんな感じで親交を深めておられましたのでしょうねぇ(^.-)☆

 そして、スタート地点にと戻って来まして、道後公園を一巡です(^_^)v
 さして格別のモノもありませんでしたけど、仲々落ち着きますイィ公園ではありました。

 それでは次は、石手寺に向かってみます事に致します(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道後公園を後にし石手寺にと到着し時間を見ますと、A.M.11:00少し前。
 時間はタップリとありますのでユックリとお詣り出来そうです(^_^)v

 ◆石手寺

 石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市石手にある真言宗豊山派の寺院。熊野山(くまのさん)、虚空蔵院(こくうぞういん)と号す。
 本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第五十一番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。
 道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽

 ・沿革

 寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。
 創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。
 寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
 河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。

 ・境内

 県道より伝説の残る渡らずの橋、衛門三郎像の横を過ぎ、回廊のある石畳を行くと山門前に至る。右に茶堂・納経所、鐘楼が、左に阿弥陀堂があり、奥に進んで一段高い位置に左側の石段を上ると本堂が建つ。
 本堂左奥に観音堂、右に絵馬堂と十二社権現があり、その先に大師堂が並ぶ。
 本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界のマントラを表現している。
 大師堂右側には訶梨帝母天堂があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。


 こんな石手寺でありますが、また画像でご案内致します(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仁王門へと続きます比較的長い回廊を抜けますと、スグ右手に存在しますのが「横谷山 地蔵院」。

 ◆「石手寺」塔頭 横谷山 東河寺 地蔵院(おうこくさん・とうがじ・じぞういん)

 本 尊:地蔵菩薩
 宗 派:真言宗 豊山派
 開 基:聖徳太子
 所在地:愛媛県松山市石手2丁目9−21

 推古天皇4年に聖徳太子が道後温泉に行啓した際、お供の葛城氏および僧・恵聡法師とともに太子に同行した恵明法師が、太子の命により横谷の山中に建立した寺院が起源。天平年間(729〜50)孝謙天皇の勅願により景雲大法師によって伽藍が整備された。その後、天台宗の寺院として「地蔵院東河寺」と改め学僧の勧学道場となった。
 南北朝時代には南朝方の拠点となったため戦火により焼失。のち河野氏によって地蔵院および毘沙門堂が現在地に移転、再建されて現在に至る。毘沙門堂はのち移転し「玉善寺」の本堂となっている。
 当寺の住職は代々石手村「大山積神社」の別当職を司り、「石手寺」住職代々の隠居寺でもある。

 
伊予十三仏霊場 5番札所

 …と、こんな地蔵院のようであります。
 少しだけ地蔵院にお参りし、そして仁王門。仁王門をくぐると正面に本堂。石段では巨大な五鈷杵が金色に輝いておりました(^.-)☆
 境内は観光客で一杯…と言うほどでもありません(^-^)「お遍路が少数派になってしまうのはここぐらい」と表現される方もおられましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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